何故3手目▲6六角はよくないのか(合理性に関する補足)
前回の記事で、なぜ合理性を問題にしたのか、話していなかった。突然、合理的とは何かと提起して、全て合理的であると結論されても、ちょっとついていきづらかっただろうと反省した。
補足しておく。
将棋について考える際、「3手目▲6六角がなぜ好手でないのか」という問題が筆者には付きまとっている。これって結構根本から考えるべき、将棋指導者の指針になる疑問ではないかなと思っている。考えていないひとは将棋において論理的思考をしていないと断言したい(何度も言うが、論理的でない方が普通)。この文を読んだ皆様も、ひまならぜひ考えてみてください。
角をむやみに動かすのは、初心者がやりがちな間違いとされている。もっともシンプルな形としては▲7六歩△8四歩に対して▲6六角だ。多くの指導者にいさめられるだろうし、私もそうする。ただ筆者としては、考えれば考えるほど合理的だとも思っている。将棋の指導しているか、チェスをやっていると多分同じ感想を抱くのではないか。
▲6六角を支持する理由はおそらく2つある。一つは角の利きを最大化する狙い、もう一つは駒落ち、特に8枚落ちの定跡の流用である。こどもの相手をしているときに、自分で筆者の視点からすれば、前者は否定できるが、後者は否定できない。
前者、序盤では駒の利きを最大化すべきとの説明は、一定数の市民権を得ているように見受けられる。こどもの指導をしていて、この発想で▲6六角と指してきたとしたら、「よく考えているね」とほめるべきだ。▲6六角とすると、7五と8四にいけるようになる。角の利きが2マス増える手なので、角の利きを強くする手といえる。チェスの一番メジャーな定跡では同じ考えで、すぐにビショップを動かすし。
ただ、筆者としては駒の利きを最大化する手がいいとの教え自体に否定的である。好形とされる石田流本組みはその自分から飛車の利きを減らすゴミ戦法ということになるし、角道を止める戦法も多い。逆に適切に説明できる戦法、戦型の方が少ないくらいだ。
角とビショップは、筆者の肌感覚では、まるで違う駒という印象を持っている。角とビショップについては次のネタにする。
いっぽう、別の定跡からの流用してくる発想は、根本からは否定しづらい。論理的に妥当な推論である。個別の戦法の目的(8枚落ちなら9筋を攻めるために▲6六角としている)を説明して、平手では使えないと説明すればいいのだが、使えないという説明だけでは、発想を貧困にするだけだ。過剰な一般化をしているとは言えるものの、特にこどもの学習において、一般化はやって当然の行為であり、学習前にどこまで一般化できるかを見極めることはできない。
▲6六角の合理性を許容すると、合理的で正解ではない事態も許容してしまうが、やむを得ない対応に思える。次なる問題は、初級者における合理的判断に対して、我々自称上級者がどのように棄却するか判断基準を示すことだ。
棋力が上がると合理性の度合いが高くなるという考えは退けなければいけない。初級者の判断が十分、合理的なのだから。ここで筆者は困ってしまうわけだ。
次に考えるのは、対抗仮説を用いて棄却する対応だ。▲6六角は価値があるけれども、もっと良い手があるため優先順位が低いとの判断を教える場合と、▲6六角はマイナスなので指さないべきと教える場合があるか。どちらが多数派なのかは分からないけど、弱い仮説である「▲6六角より価値の高い手が多い」ことには多くの有段者が賛同してもらえるだろう。この意思決定を行うためにはmoveに対して重み付けをすることになって、重み付けでの意思決定は動的計画法と相性がいい考え方となる。それで前回、動的計画法ということばを残したわけだ。実際、将棋を含む強化学習の文脈では必須レベルの考え方のよう。しかしながら、人間相手で正しいのかどうかは怪しい。
これは私にとって本当に驚くべき事態なのですが、どうやら普通の高段者は駒の価値すら理解せずに指しているようなのです。
筆者も、自分なりの優先順位と直感を有しているが、▲6六角がどのくらいいい手なのかは考えていない。そのくらい、重み付けによる比較は行っていないと感じている。
結果、普通の解釈では筆者の実感に合わないとの思考に至った。直接▲6六角について語るためには、より複雑な言説を構築しなければならないと、ほかの考え方に目を向けた。その結果、アクター・ネットワーク・セオリー、オブジェクト指向オントロジーというものが見つかったわけだ。
文系学問の、ガチな部分に踏み込む必要がありそうで、独学趣味で進めるには、だいぶ時間がかかりそうだ。おべんきょ中だけど、正直、ぜんぜんわかんにゃい。ANTとかは海外ではすごい影響があったらしいし、AI時代にはより重要になってくるとも思うので、頭いいひとは知っておくといいかもよ。
この文脈で妥当な推論方法とはどのようなものかを考えるには、センスデータに対するセラーズの批判とかがどう乗り越えられているのかが大事になって、ではその元であるラッセルの哲学入門を読み直すのかとか、余計にスコープが広がってきている。楽しいっちゃ楽しいが、分析哲学大陸哲学全部やるってことになりかねないので、時間はかかるよね。という愚痴でした。
筆者の構想としては、序盤における筆者なりの考え方を示して退けるだろうが、▲6六角自体には言及できなそうな見込みだ。