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障害ってなに?

 精神障害、障碍、疾患、症。様々な呼び方が増えて、古い呼び方は悪しきものとなっていく。同時進行で海外では症状の呼び方が変わったり減ったり増えたりしている。

 私が精神障害者であり、手帳を取得するにあたって、全く不快さはなかった。恐らく、母が精神障害で病棟に隔離されているのを見たり、手帳を取得したりしていたこと。それによって父が拒否感を示さなかったことも大きいかも知れない。母が取得した当時、父が「手帳あるとメリットが……!」と駐車場の優先場所を確保できることを知っていたからだろう。
 ……そもそも、周囲の反応に興味がなく、「私と映画が行くと安く見れるぞ!」と誰かを誘えるというメリットもある。基本的に一人で観にいくが。

 手帳は、周囲の人に分かりにくいものを抱えているけれど、助けを求めたい時に出したら助けを得られる(かも知れない)もの。
 障害とは、医師が診断する名前。自分をどのカテゴリーに属するかを知り、適切な治療を受けるためのラベル。
 また、福祉サービスを受ける際にも必要なもの。様々な手続きで。書類やお役所で必須になる。

 とある発達障害の息子さんがいるお母さんとお話をした。
「障害って抱え込んで生きるもの、みたいなものじゃなくて、もっとオープンにしていいと思うの」
 ご両親には障害を隠せと言われるらしい。
「症状に病名が付くまではしんどかった。それからは、学校の先生が掌変えて対応してくるよ。
 症状隠しても、将来のこの子を助けてもらえるチャンスを減らしてるから、私は嫌なんだよね」
私「分かります。オープンな方が、未来に可能性多いんじゃないかって思うんです。でも、受け入れる側や親兄弟に偏見があるんですよ。変人、みたいに」
「障害っていう嫌なものじゃなくて。
 個性とか、特性とか、そういう表現がいいのよ。
 日本では軍隊みたいに『こうありなさい』っていう規範があって、そこからズレると異物にされるのがねぇ」
私「嫌ですよねぇ。窮屈で。なんで、寛容になれないんでしょうね。みんな自分に厳しいんですよ。俺はこんだけ苦しんだんだからお前らも苦しめ!みたいな。新たな可能性や道を受け入れない人が多い。
 自分に優しくない人は、他人にも優しくなれないのに。負の連鎖ですやん
傷つけられた人は、他人を傷つけないようにするから、優しく見えるんだよね。実際、その優しさに救われたこともあるけど」

たとえば。
「私は、こういう特性があるんだ。だから、こういう時は、こうしてもらえると嬉しいな。あ、こういう状態になってたら放っておいても大丈夫。でも、違う状態になってたら声かけてもらってもいい?自分でも気づかずに追い込んでるかもしれないんだ~」
「わかった~。あ、わたしはこういう特性があるからアラーム鳴らすけどいい?」
「うーん、大丈夫じゃなさそうな時声かけてもいい?」
「うん、お願いします」

 こんな会話が当たり前になればいい。互いの困ることを伝えて、どう対処すべきか、するのかを伝えて。相手にも求められて。それが当たり前に気遣えるような社会に、なればいい。


 誰にだって得意不得意はある。それでも人間関係はある。
 『自分ができることをこいつはできない』=『おかしい・変・能力がない』
ではない。
 『できることをしたいけど、できない状況や要因があって、助けが必要』なこともある。

 私は、高校生の時、母に「あんたが繊細すぎるのがいかんのやろ!!!」とキレられたことが未だにトラウマだ。
 おかあさん。繊細なのも、私の特性なんだ。不眠症がずっと続いて、どんなに体育とか頑張って体動かしても、寝なきゃいけないのに、次の日が怖くて寝れなくて。しんどくて。おかあさんが言ったこと全部試したよ。でも。
 そのSOSを「あんたが悪い」でぶっ壊された。本当に、限界だったのだと思う。

障害、障碍、障がい。個性や特性。
呼び方で心が軽くなって受け入れやすいならそっちを使って。
そして、その中身を知って、認めて、受け入れて。
わたしたちの、困ってること、恐いこと、助けてほしいこと。

もう、死んでほしくないんです。
もう、死にたいと思いたくないんです。
だから、助けて。知って、認めて、受け入れる社会に。