今日、気付いた75年ぐらい前?の話
私が幼い頃、祖母に聞いた話を書く。
幼い頃に聞いたので記憶は曖昧だが、祖母は戦時中は旧満州にいた。
祖父は軍人で、祖母は当時2歳ぐらいの父とまだ乳児である弟と暮らしていた。
祖母は「父親の弟は生まれつき身体が丈夫ではなく、薬を飲んでいた。ある時、薬を飲むのを嫌がるので、シュークリームみたいな物の中に薬を入れて飲ませたら、シュークリームが合わなかったのか、亡くなってしまった」と話していた。
それを聞いた当時の私の感想は(戦時中なので、闇市のような不衛生な所で売っていた何が入っているかわからないシュークリームのような物を食べてしまったからなのかな)と思っていた。そうその思いのまま、令和3年の今日まで居たのだが。
何故、そんな話を思い出して、ここに書いたかというと・・・
今日も無職の私は、毎日のお決まり事であるスマホ片手にダラダラと自分が興味あるものだけをネット検索して読んだり、観たりしている。
そこで何故か目を引かれた「僕は母と妹を殺めた」という記事の見出し。
その見出しをタップするとかなり年配の老人の写真が出てきた。(老人?この老人が妹と母親を?)最初の記事の見出しを読んだだけの印象では、記事の内容が過去に家族を殺めてしまったというような凶暴・凶悪な内容の話だと思っていた。そしてこの記事も獄中手記のような物なのかと勝手に思い込んでいた。
穏やかな顔つきの老人の写真を観た後、記事を読んでいくとその老人は旧満州に両親、弟、そして妹と家族で住んで居たとの事。
私の祖母と同じ所だ。
記事を読み進めるうちに(ひょっとして・・・)と思う内容が書いてあった。
その老人は家族で満州にいたが、敗戦が決まり、日本人が徐々に追われていく中で、自宅に日本人男性が数名入って来て、母親と何か話をしていたらしい。その後、当時11歳の子供であった老人は瓶の中に入った透明な液体をスプーンですくい、母親に抱かれている妹に舐めさせる。すると目を閉じていた妹の目が開き、そのまま息絶えてしまったと書かれてあった。
また娘を失った母親はショックのあまりにみるみる衰弱し、病院に収容されてしまう。老人は弟達と一緒に母親を看病していたが、ある日、医者から普段と違う粉薬を手渡され、それを何の疑いもなく母親の口に流し込むと、母親はすぐに口から白い泡を吹き出して息を引き取ったと書かれていた。
その後、日本に帰ってきた老人だが、妹と母親を殺めた記憶がある為、感情が無くなり、ずっと精神的な治療を長年受けるようになる。今回の記事の内容も妻や自分の子供にさえ、話す事ができなかったと書いてあった。
その記事を読み、ひょっとしたら、父親の弟も病弱であった為に、薬によって死んでしまったのではないだろうか?薬を嫌がったのは、本能的な拒否だったのではないか?との考えが頭によぎった。
同じ満州であるし、この老人も日本に帰るという長旅を乗り越えられない病弱な人間は医師の判断で安楽死させられたのではないかと書いてある。
私の祖母は看護師をしていたと聞いていた。
そんな祖母が実の息子に毒である薬を飲ませるのか・・・いや、本当に薬だと思って飲ませていたかも知れない。
また毒と解っていたが、シュークリームのせいにした方が幼い父親に説明しやすかったかも知れないし、自分で自分の息子を殺めた事実から目を背けたかったかも知れない。
今となっては、真実はわからないが。
病弱だった弟、満州、薬を飲んでというところが今回の記事と一致し、妙に私は納得してしまった。
私の祖父は満州にて戦死し、祖母と父親は満州から日本に帰って来た。
そんな祖母も父親も今はこの世には居ない。
実家で父親の遺品の整理をしている時に、自治会の冊子に掲載する為に頼まれたらしい父親が祖母から聞いたのであろうと思われる【戦時中の体験談】が途中まで書かれた原稿用紙が見つかった。
【満州から引き上げる際の汽車の中で、母は周りに自分が女性と分からないように男性のような格好をし、顔をわざと汚して、帽子を深く被り、顔を隠していました。汽車の中では子供が泣くと「うるさい」と言われ、泣き止まない子供は母親が自ら子供の口を塞ぎ、窒息死させていたそうです】
この話を私が父から聞いたことは一度も無かった。
令和3年の今日。
もっと祖母や父から戦争の話を聞いていたら良かった・・・と思う。
2度とこんな悲しい事を繰り返してはいけない。
また今回この記事に今のタイミングで巡り会ったのも、何か深い意味があるような気がしている。
その意味の答えが私に分かる日がくるのだろうか。