気付けば 五十路前4 (幼稚園の思い出)
私は自分の顔のレベルに3歳頃から気付いていた。3歳にして自分の容姿を悟る。(気付きが早ければ、早い程、苦痛が長くなるだけなのだが)
奥目で二重なのに細い目、更に耳はデカく、四角いエラが張った輪郭、赤ちゃんの頃は奥目な故に外国人の方ですか?(当時でいうソビエト連邦系あたりに見えたらしい)とよく聞かれていたそうだ。確かに当時の赤ちゃんの頃の写真を見るとロシア系に見えなくも無い。純粋な日本人だけど、ロシアっぽくちょっとだけ 可愛かった。
しかし、私の容姿のピークはそこで終了した。生まれて数ヶ月でピークが終わった(本当に早かったですねー と 本人談)
母親からは「小さい頃、あんたの目を踏んだら、耳が出たんや」と言われずっと信じていた。
それでいて、凄くゴツい系の男顔にゴツめ身体。因みに兄は目のクリっとした女顔。
神様、逆ですよ、逆。
彫りが深いんじゃない? ううん、奥目なだけ。福耳だから良いんじゃない? ううん、人に引っ張られやすいだけ。
3歳にして自分の顔のレベルを悟った私は、幼心なりに、この顔をあまり人様に見せてはいけない、申し訳ないと思い、友達も居ないので、外で遊ぶ事もなく、そもそも外で遊ぶ事自体が好きではなかったので、ほとんどを家の中で過ごしていた。家の中では妄想や空想をしたり、テレビを観るのも大好きだった。当時の私はテレビが友達だった。兄は友達と公園に出掛けたりしていたが、私は、家に帰ってから、ずーっとテレビを観ていた。
たまに母親がしているお店に兄が行くと言うので、一緒に付いて行く事もあった。兄は母親が好きだった。
お店に行くと、お好み焼きを焼きながら、お客さんと楽しそうに話す母親が居た。家で過ごしている時の母親と違って本当に楽しそうに見えた。
当たり前の話だが、お店では、お客様が優先。私と兄は母親が相手に全然してくれない事に腹を立て、2階の住居スペースに上がり、二人で大声を出しながら、わざと飛び跳ねて大きな音を出し、営業妨害的な事をしていた。
今、考えると、普通に営業妨害だ。
当時の母親は生花も教えており、お好み焼き屋が唯一休みの月曜日は夕方から生花を教えに遠方まで出掛けていた。
幼い兄妹にとって、母親と一番長く居られた時間は、月曜日のみで、私達が幼稚園や小学校から帰って来た後から、母親が生花教室に出掛ける夕方までの数時間。
兄は毎週、生花教室に行こうとする母親にすがって「行かんとって 行かんとって〜」と言いながら、泣いていた。私も一緒に泣いていた。
月曜日は私達にとって、とても嬉しい日であり、とても悲しくなる日でもあった。
ある日の月曜日。
私は母親が今日は絶対に生花に行けない、いや行けるはずがないと自信を持っていた。
なぜかというと、この日私は、兄から借りた手錠を隠し持っていた。黄色いプラスチックの手錠。大きな鍵まで付いている。この手錠で私と母親をつないでおけば、母親は生花教室には行けない。鍵はわからない場所に隠しておこう。
幼稚園から帰って来た私は、ウキウキしていた。
あの手錠さえあれば、母親が家に居てくれるのだ。
ウキウキしている私に母親が「生花に行くまでお昼寝しよう」と言って来た。
よしっ 絶好のチャンスだ。
私と母親はまだ外が明るいうちから、布団を敷いて横になった。
私は無言で母親に手錠をかけた。これで母親はどこにも行けない、もう片方の手錠は私の右手にかけた。
私は少し、ドキドキしていた。何も悪い事をしていない母親に手錠をかけてしまったという罪悪感があったからだ。
「手錠かけられてもた〜」と母親は笑っていた。笑う母親を見て、私は罪悪感が少し消え、嬉しくなった。
そうだ!! これから毎週、月曜日は母親に手錠をかけよう。これで兄が泣く事もなくなるだろう。
私はとても良い事をした気分になっていた。兄もきっと大喜びするだろう。今日は母親がずっと居るんだから。
母親が先に眠り、安心した私は母親を追いかけるように隣で眠った。この時の私は、とても嬉しそうな顔をして眠っていたことだろう。
暫くして 目を覚ます。
辺りはもう、すっかり暗くなっていた。
(そうだ!!手錠!!お母さんが居るんだっ)
薄暗がりの中、寝ぼけ眼で横を見ると、私の右手に付けた手錠はそのままで、その鎖の先に居るはずの母親の姿はなく、外された手錠だけが布団の上に残されていた。
暗い部屋の中には、私だけが居た。
その後、母親が生花教室に出掛ける度に、兄は変わらず「お願いやから、行かんとって」と泣き叫んでいたが、私は手錠を外されたあの日から泣く事はなくなり、黙って母親を見送るようになっていた。
何をしても母親を止める事は、無理なんだと解ってしまったからかも知れない。
その事実は、5歳の私にはショックが大き過ぎたかも知れない。