社会人2社目
診断が双極性障害になった冬、お気に入り仲間の女の子は同じ時期に休職に入りました。私はこれ以上会社と繋がりを持っているのが嫌だったので、転居と転職を決意しました。
転居
翌1月、関東から1300km離れたところへ転居しました。とにかく遠くへ行きたかった。実家も仕事も捨てて、なにもかもやめたかった。多額のボーナスをもらっていたのでお金には余裕がありました。転居してからの暮らしには心の余裕が生まれ、快適な生活を堪能していました。2月からアルバイトを始め、3月から職業訓練校に通いました。この頃、心療内科に通うのを自己判断で辞め、薬が手に入らなくなったのでODをすることもなくなりました。6月まで職業訓練校に通い、建築の知識を身につけました。訓練校では歳の離れた友達がたくさんでき、大学に戻ったような楽しさを感じていました。
転職
訓練校を卒業する6月、就職が決まりました。希望通りの建築職。私の新しい人生の始まりのはずでした。その会社は家族経営で、会長家族+先輩1人が働いていました。最初はとてもやりがいを感じていたものの、次第に実態が明らかとなっていきました。
先輩は毎日社長に怒鳴られ、パワハラを受けていました。先輩は優しく真面目な性格でしたが、要領が悪いタイプでした。それを知っていたら入社しなかったのに。事前見学では全くわかりませんでした。隠していたのでしょうか。社長に厳しく当たられる姿を見ながら仕事を覚えていきました。日が経つにつれ、先輩からは社長の愚痴を聞き、社長からは先輩の愚痴を聞き、間を取り持ち機嫌を取りながら、どちらにもいい顔をして仕事をするようになりました。
9月になると、ついに先輩が辞めることになりました。先輩がいなくなったら、私にパワハラが来るのだろうか、誰に相談すればいいのだろうか、先輩がいたから頑張ってこれたのに今後どうしよう。そんな不安を抱えながら、ひとりで社長会長の機嫌を取っていました。仕事は土曜日もあり、月6日しか休みがありませんでした。そして私は病気が再発し、しかし病院にはかかっていなかったので薬がなく、ついに市販薬ODを始めてしまいました。
最初の未遂と精神科
9月下旬、ODに慣れた私は、危険な市販薬に手を出しました。数箱で致死量に到達してしまうその薬をネットで買い、自宅で服薬しました。もう限界でした。今までのODは体がふわふわしてどこか心地よくて、何もかも忘れられる幸せなものでしたが、その時は幸せなどありませんでした。当時半同棲していた彼が仕事から帰宅して倒れている私を発見し、救急要請してくれたようで、なんとか助かりました。致死量を飲んでいたので、病院では胃洗浄と活性炭投与を受け、胃がつるほど吐きました。手足は痙攣し、意識は朦朧、パニックを起こして呼吸も苦しかったです。一晩中吐いては意識を無くすのを繰り返し、翌日の昼前には病棟に移りました。すぐに点滴と吐き気止めを入れてくれましたが、吐き気止めは効かず、でも水を飲むなりして体から薬を出すしかないと言われたので、こまめに水を飲んでは嘔吐しました。苦しかったけれど、やってしまった自分よりも死ねなかった自分を恨みました。死んでいればこんなに苦しまなかった。なんで助かってしまったのか。もっと気づかれないところでするんだった。もはや思考が停止していました。
3日目には食事が取れるようになり、数日で退院して自宅療養に移りました。帰宅して1週間ほどは、処置で入れた管の違和感で喉と胃が辛かったですが、体は元気でした。そして精神科にかかりましたが、最初の精神科では対応できないと言われ、大きな精神科単科病院を紹介されました。その精神科はハズレでした。主治医は共感ができないタイプで、淡々と対応され薬を処方され、雰囲気には怖さすらありました。そこでは境界性パーソナリティ障害と診断されました。仕事は休んでいましたが、10月に復帰しました。
解離
復帰してまた元気に仕事をしていたのも束の間、今度は解離が始まりました。私の場合は超短期間の記憶障害で、泣きながら意識を失うと、次起きた時には暴れていたようです。物を投げつけたり、ハサミを振り回したり、外に出ようとしたり。当時の彼氏に怪我をさせたこともありました。そしてまた起きた時に、自分はそれまでいた場所と違うところにいるのです。不安で堪らなかった。最初は状況理解もできず、彼が全部教えてくれました。解離を繰り返すうちにだんだん慣れていきましたが、自分がどうなっているのか分からない不安は今でもずっとあります。もし1人の時に、ましてや外出中に解離したら…。そんな予感は的中し、ある日外出先で帰り道が分からなくなって警察のお世話になるのでした。
精神科への入院
そんなこんなで、限界を感じた私は、11月に精神科へ入院します。任意入院だったので比較的自由でしたが、病院でも解離したりパニックを起こしたりしていました。初めての閉鎖病棟。でもすぐに友達ができ、それなりに楽しんでいました。仕事は休職にさせてもらっていました。しかし入院して少し経った頃、彼氏から電話があり出てみると、「とうふ、仕事解雇になったよ」と。頭が真っ白でした。なんで?休職のはず…。退職勧告もなく、突然の解雇でした。退院したら会社に復帰する予定だったので、とてもショックでした。1週間と少しで退院して会社に連絡すると、「もっと長期の入院になるかと思った」と言われました。捨てられた…。どこかで分かってくれると思っていました。そんなことはなかった。また無職になってしまいました。
病気の経過
それから失業保険をもらって生活しました。病院で障害者手帳をもらう手続きをし、手帳のおかげで失業保険は10ヶ月受給できるようになりました。ハローワークへの職業相談も月2回のところ1回でいい。たまに地域活動支援センターに行き、相談員さんとお話をして、家事をして、毎日をゆったりと過ごしていました。メンタルは相変わらず落ち着かず、それからの1年間で6回の短期入院をしました。未遂も全部で3回しました。一度だけ未遂で医療保護入院になり、1ヶ月閉鎖病棟に入院した時は、最初に隔離室に入りました。危険物どころかベッドのシーツも回収され、メガネも持ち込み禁止、マットレスとトイレだけの部屋で数日過ごしました。やることも無いうえカメラで終日監視されているし、看護師さんを呼ぶ時は大声で叫ぶか小窓をドンドン叩くしかない。隣からは悲鳴が聞こえる。もう二度と入りたくないです。
2度目のOD未遂
自宅に帰ればODと自傷をする日々。解離をしては暴れて、失踪しては警察を呼ばれる。精神科は週に一回。落ち着く日などありませんでした。
そして今年の9月、1年ぶり2度目のOD未遂をしてしまいました。また同じ薬。今度こそ逝くつもりでした。でも無理だった。また助かってしまいました。救急に運ばれ処置を受け、たくさん吐き、観察室に入院しました。数日で退院しましたが、自宅でも体調はとても悪く、体のふらつきと目眩、頭痛、吐き気、血管痛、腹痛、喉の違和感、寒気に苦しみました。精神科の薬を辞めた離脱症状もあるようでした。
現在 に続きます。
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