仏教凄いと思った話と催眠術との関係

般若心経に以下のような一節がある。

無眼耳鼻舌身意 (むげんにびぜつしんい)
無色聲香味触法 (むしきしょうこうみそくほう)
無眼界乃至無意識界 (むげんかいないしむいしきかい)

この一節を読み解きながら、仏教の凄さについて理解していきます。

無眼耳鼻舌身意(六根)

眼耳鼻舌身はいわゆる五感と言われるもので、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚を表しています。
さらには意識のことで、これら6つの感覚器官があるいっています。
この6つで、「六根(ろっこん)」言います。

ですが、仏教ではこれらが無いと言っています。

えっ!!?あるんですが。。。と思ってしまう。。。

無色聲香味触法(六境)

色聲香味触はそれぞれ眼耳鼻舌身の感覚器官から感じ取れる感覚のことです。
は、意識によって感じ取れる思い・考えです。
これら6つの、六根の対象を「六境(ろっきょう)」と言います。

眼 → 色(しき)
耳 → 聲(しょう)
鼻 → 香(こう)
舌 → 味(み)
身 → 触(しょく)
意 → 法(ほう)

ですが、仏教ではこれらが無いと言っています。

えっ!!?これもあるんですが。。。

無眼界、乃至、無意識界

六根の感覚器官を通して感じ取った、六境の感覚。
この感覚を通して生まれた認識を「六識(ろくしき)」と言います。

例えば、眼という感覚器官を通して、色を感じ取ってできた認識を眼意といいます。
そして、その感覚の世界が眼意界です。

乃至とは〇〇〜□□までというような意味です。
この節は要は「眼で見て認識した世界から、意識を通して認識した世界まで、全て無い」という意味です。

ちょっと待って!?全て無いってどういうこと?

全ては無とは

仏教では、感じ取った感覚と、その認識で作られた世界は全て虚構だという解釈をしています。

花を見て美しいと認識したとしても、突き詰めれば眼が光の粒を拾って、脳で処理して反応をしているだけ。
美味しい料理を食べたとしても、味覚が反応して、脳が快楽物質を出しただけ。
認識している世界は全て、虚構にストーリーを付け加えて理解しているだけ。

結局何が言いたいのか

全てが虚構だと言われて、結局どうすればよいのか。

ブッダが言いたいのは、全ては突き詰めれば虚構なのだから執着するな、と言っています。
執着することで苦しみが生まれると。

「物理空間」と「情報空間」

話は変わって、この仏教の考え方と催眠術の類似点について紹介します。

催眠術の基本の考え方に、「物理空間」と「情報空間」という概念があります。
物理空間とは、物理的に存在している世界のこと。
情報空間とは、脳が認識している世界のこと。

これって、物理空間は六根が捉えようとする対象、情報空間は六識ですよね。

人は実際には、虚構でしかない世界に色んなストーリーを後付して認識しています。

例えば、お金。
1万円札を見たとき、ただの紙でしかないのに、価値があるものとして認識します。
この認識を万人が持つことで、1万円の価値という共通認識ができるんですね。

催眠術は、この認識を変える技術のことです。

最後に

仏教を通して考えることで、催眠術の概念の理解を更に深められた気がします。
仏教誕生は約2500年前ですが、その頃にこの境地に至っていたブッダは恐るべしです。

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