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「忘れたはずの名前」

「忘れたはずの名前」


バーのカウンターに腰を下ろし、ジントニックを傾けていた。心地よい音楽と控えめな照明が、疲れた神経をほどよくほぐしてくれる。久しぶりにリラックスできる夜だった。


「10年前に井戸を覗いたこと、覚えてる?」

隣に座った女性がそう言った。


目を向けると、淡いピンクのセーターを着た女性がこちらを見ていた。短めの髪が柔らかく光を反射している。初対面のはずだ。

「すみません、どなたかお間違いでは?」

そう答えると、彼女は静かに笑った。

「覚えてないのは分かってる。でも、確かにあなたと一緒に覗いたの。」

「井戸を?」

「そう、井戸。深くて暗い井戸。でも、その井戸には何も映っていなかった。」


意味が分からなかった。しかし、彼女の言葉には奇妙な説得力があった。記憶の奥底に、何か引っかかるものがあるような感覚がする。


「何かの冗談ですか? 10年前って、僕は大学でバイトに明け暮れてた頃ですよ。」

彼女はグラスを回しながら首を傾げた。

「そう。その大学のキャンパスの裏にあった小さな公園、覚えてる?」

一瞬、胸の奥がざわついた。その公園の存在を思い出した。今は取り壊されてしまった場所だ。


「確かに、そんな場所がありました。でも、井戸なんてなかった。」

「いいえ、あったの。あなたと私が一緒に覗いたのよ。あのとき、何かを見たでしょ?」

彼女の声は不思議な響きを持っていた。何かを知っていて、それをわざと隠しているような。


「もしそれが本当だとしたら、なぜ僕は覚えていないんでしょう?」

彼女は微笑んだ。

「忘れる必要があったから。井戸の底を覗くと、忘れたいものを全部そこに置いてこれるの。でもね、時々それは帰ってくるのよ。こうやって。」


言葉を失った。その瞬間、頭の中に映像が浮かんだ。暗い井戸、湿った石の感触、そして、その中を見下ろす自分と――彼女。


「あなたは…誰なんです?」

彼女はグラスを空にし、静かに立ち上がった。

「また会えるかもしれないわ。その時までに、思い出して。」


彼女が立ち去った後、カウンターには銀色に輝く小さな鍵が残されていた。



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