無題/戦争画をテーマにした物語(第5部のつもり③)

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 小笠原君自身が言っていたように、一連の話に矛盾を感じないでもなかった。でも矛盾があって当たり前というか、彼自身きっと矛盾や葛藤、混乱の中でもがきつつ描いているうちに、逃げに徹した私などが知りえない境地に達した瞬間があったのだろう。
「一閃」を描いていた時、激情に駆られて叫びそうになるのを口に手拭いを突っこんで押さえた、と話してくれたことがあったが、あれは「こんなに怖ろしい絵を描いているのに、面白いと思ってしまっている」という混乱からだった、と彼は補足した。
「敵地の飛行場上空を飛んでいる爆撃機の高さを出したりだとか、プロペラの回っている感じはこう描けば出るんだ、とか。それこそ、投下した爆弾があげる煙はこういう感じだろう、とかさ。そんなことを考えながら描くだろう?
 でも、このかっこいい飛行機の下で人間が死んでるんだ、って想像すると、また『俺、何描いてるんだ』って。
 逃げたくなるんだけど軟禁状態なんだから逃げられっこない、でもそれを描くことが楽しいと思ってしまっている。もう、何がなんだか分からなくなっちゃってたんだよ」
 彼の話の中で「目と指先」という言葉が出てきたが、制作を続けるには、それらを「心」から切り離しておく必要があった、ということかもしれない。嫌な絵を描かされるのだと知りつつも、どんな物体を描くのか――小笠原君でいえば機械や飛行機の絵を描くだけだ、と思うにとどめておく。それでも叫びたくなるほどの苦しみはついて回る。心の制御といえばいいのか、葛藤や混乱を最小限にとどめるための努力が、描くことそのものよりもはるかに大変だったのではないか。
 そういえば、戦中に出た美術雑誌に、従軍画家の対談記事があった。その中で、ある画家が「『時局画を描くのは辛いでしょう』とたずねられるが、私は楽しいから描いているのだ」と明言していた。それを読んだ時はもちろん悲憤ひふんめいた感情がこみ上げてきたものだが、数年を経てようやく、その画家の気持ちを理解できた感があった。
 なるほど、「楽しい」というのはその画家にしてみれば偽らざる本音、でしかなかったのだろう。彼の「心」がどの辺にあったのか、戦争をどう捉えていたのかは知るよしもないが、彼は自分の「目と指先」がどのくらいのものなのか試してみたい、最高の仕上がりにして世に問うのだ、というわくわく・・・・とともに画布に向かっていたのかもしれない。
 そういう手合いにも、はじめは葛藤があったはずだ。しかしいつの間にか「腕試しだ」などと思うようになり、自身の「目と指先」でやれるだけのことをやってみよう、と前向きな気持ちさえ出てくるのではないか。
「あのさ。絵だけじゃなくて、芝居でも音楽でもそうなんだろうけど。
 作っている側が『楽しい』と思って作ったものなら、それに触れる側にも楽しさが伝わるだろう、っていうのがあるじゃないか。その結果、作り手が楽しみながら形づくったものは世に出れば『いい作品』として評価される。そういうことなのかもしれないな」
 その証拠に、俺は例の時局画展で「一閃」を見た時にやはり小笠原誠という画家の凄みを再認識するしかなかったし、一緒に出品されていた作品のいくつかに心を揺さぶられる瞬間があったんだ。画家である以上、制作時に(苦労するのと同時に)楽しさを感じるのは当たり前のことだけど、見る側にそれが必ず伝わるとは限らない。画題のことはさておき、作り手の心情を、見る側に素直に受け取らせるだけの技量がある。そういうことだよな。
 そう言ってみたら小笠原君は「おだてるなよ」と頭をかいたが、こう言葉を継いだ。
「ベテランの日本画家が描いた時局画はさほど評価されなかったけど、西洋画壇の連中の作品はやっぱり見るべきものがあったし、『うまくはまっているなあ』って思わせるものばかりだったじゃないか。そういった作品は、日本人の西洋画家が『これまで手つかずだった分野に挑戦できるぞ、これは好機だ』なんて思いつつ向き合っていたからこそ生まれたのかもしれないな。そんな気もするんだよ」
「それは、俺も分かる。日本人の画家がやってこなかった分野、っていうのは例えば西洋の宗教画とか、そんな感じのものだろう?」
「そう。ニューヨークに逃げたあの画家は、若い頃パリにいたじゃないか。彼には、パリ仕込みの西洋画の腕と感性がある。そこに戦争が始まって『戦意高揚のための絵画』という需要ができた。そんな中であの画家は慌てて日本に舞い戻って、自ら時局画の旗振り役になったんだ。
 戦場の様子などを克明に描写した作品が必要だという軍の依頼を受けて、それに応えなきゃいけないのと同時に、作品には『今までに描いたことのなかった作品を手がけるんだ』って意欲も乗っけることができる。仕上がった作品を戦争画として披露し、多くの人に見てもらえるのは、彼にしてみればまさに好機だった、ってことになる。『よし、レンブラントもドラクロワも裸足で逃げ出すような作品をものして・・・・みせるぞ』とでも思っていたんじゃないのか」
 そんな風に描かれたのかもしれない作品――日本人部隊壊滅を描いた作品が、民衆にどう受け止められたのか。
 その作品がお披露目ひろめされたという報に触れた時、私などは作者の立ち位置や思惑なんかをどうしても考えてしまって、うがった見方しかできなかった。しかしおおかたの人、とくに身近に戦死者などがいた人――慰霊が身近になってしまった人々が見れば、あの暗褐色あんかっしょくの(残酷図といってもいいような)絵の中に「国のために散った大切な人」の像を見いだし、鎮魂や感謝、畏怖いふの念などを抱くことになる。
 つまり敬虔けいけんな思いとともに見るべきもの、それこそ宗教画のような側面を持った作品になる。制作の意図がそこにあったとすれば、作者にとって「願ったり叶ったり」の結果をみることができる。
「下手すると『時局画じゃなくてもよかった』ってことになるかもしれないな。戦争が起きていなくても、彼はそういう画題に挑戦していたかもしれない。そう考えると……」
「うん。画家として飛躍するために、戦争をやりたがる連中を利用した可能性もある」
「一枚も二枚も上手うわてだった、ってことか。腹の中では軍の連中に舌を出していたかもしれないな」
 そう言った直後。私の中で「唾棄だきすべき存在」でしかなかったその画家への印象ががらりと変わった、そう思える瞬間があった。
 あのような作品を多く手がけたこと。その真意が「慰霊」「鎮魂」、またはそういった心情をある層・・・から引き出すためだった、という可能性も出てくる。
 それに、画家としての飛躍のために権力を利用したということは、どんな状況であっても彼自身が画家そのものであり続けたい、という意志を捨てなかった(持ちつづけようとした)からこそとった行動ではないか。
 人間としては狡猾こうかつでも、芸術家としては純真そのものだった。というのは大げさかもしれないが、でもそんな言葉で表現することもできる。
 そしてその画家は「描く者」としての意志を強く持ち続けていたのだ、おそらく私などよりも何百倍も、いや何千倍も強く。
 
 戦争画とは、戦争の世にあって戦意高揚(プロパガンダ)を第一の目的として生まれた、絵画の一分野である。そこに画家達が関わっていくことになったが、その中で描き手達は人間としての「心」と表現者としての「目と指先」を切り離してなんとか制作活動を続けた、そういう者も一定数存在したようだ。表現者としての意欲を受け取るぶんには、まあまあ楽しく見れるのではないか。
 のちの人に「戦争画とはなんだと思いますか?」「これらの作品を見て、どう思いますか?」とたずねたら、こんな言葉で説明してくれるかもしれない。なるほど、さきの言葉は小笠原君の「一閃」を鑑賞する時のガイドとしてはいいところをついているのでは、ともいえる。
 しかし戦時の数年間を生きてきた我らにすれば、こんな呑気な気持ちで見ることはさすがにできないし、戦意高揚を前面に押し出したぶんだけ現実味に欠けるのではないか、という気もする。戦闘の様子などの「かた」を克明に描いてはいても、「じつ」とでもいえばいいか、描き切れていないなんらかの要素があるのではないか、とも思えるのだ。
「ほんとうは、どうだったんですか?」
 後の世の人にそう訊ねられたら、なんと答えればいいのか。
「玉井先生は、南方に何年かいたんだったね」
「うん。俺が人物画を習うのに芸校に行っていた時、当時の話をしてくれたし作品も見せてくれたよ。南の島に勧請かんじょうされた神社の大鳥居と、南洋の椰子やしの木を並べて描いていた」
 戦闘の結果日本領になった島に、日本の神社が建つ。その描写も、遠回しに「日本はいくさに勝ってこの島を手に入れたのだ」と説明している、つまりそういった絵も戦争画のひとつの形式といえる。
「あとは、向こうの子どもが日本語の教科書を開いて勉強しているところとか。筆致は王道の日本画だったな。王道すぎるもんだから『日本画はやはり時局画にはそぐわない』って言われて、それでお役御免になったって」
「最前線にいたわけじゃなかったんだよな」
「よかったじゃないか。お陰で危ない目に遭わずにすんだ」
「いいんだけどさ。いや、そういう意味じゃないんだ。なんていえばいいのかな。
 時局画のことを語る時、俺なんかは明らかに部外者ってことになるだろう? 絵の勉強はしたけど、見る側にしかなれないわけだ。
 プロパガンダしょくの強い絵は当然高い評価を受けたけど、そのプロパガンダという大前提があるぶんだけ、でき上がった絵は現実味に欠けたものになっている。つまり俺達は、時局画をとおして『戦場の実録』を見せられていたわけじゃない。じゃあ何を見ていたのか、ひょっとすると『戦場の実録』を描いた作品などこの世には存在しないんじゃないか。そんな気がして、従軍経験のある玉井先生の話をしただけだ」
「まあな。俺も軍が持ってきた写真と、帰還兵の話を参考に描いたわけだし。写真の引き写しで賞を取った奴もいたぐらいだもんな、まああの人の技量は大したもんだけど」
「もし発ちゃんが戦地で描くとしたら、どんなものを描いただろうね」
「そんなこと、けるか? せっかく克服したのに、ぶり返したらどうするんだよ」
「聞き出せっこない。分かってるよ」
 大畑君らしくもないことを言うもんだ、と小笠原君は呆れていた。しかし平澤君の名前を出したことで、彼を一時期苦しめた「戦地の疲れ」(もちろん完全に克服できたわけではないだろう)こそが、私が知りたがっている「戦場の実録」の一端であることは間違いないだろう、と気づくことができた。
「なんだか、変なことを考えちゃってるように見えるんだけど。それで、大畑君がいうもやみたいなものは晴れるのかね」
「晴れればいいけど。変な方向にいっちゃってるかな」
「何を知りたいのか、何を解決すれば靄が晴れるのか。だよな」
「そうだな」
「団体にはいないのか、そういうのを描いてた人は」
 たしかに、私が所属する美術団体「ひらく会」には元従軍画家もいるし、時局画展への出品経験がある人もいる。他の団体では、時局画展で評価された画家が戦中のやっかみ・・・・と戦後の手のひら返しに耐えられなくなり田舎に引っこんだ、なんて話もある。しかし、ひらく会ではその辺寛大というか、そういった人は時局画など存在しなかったかのように健筆をふるっている。
「そんな話をしたらかどが立ちそうだしさ。ま、『昔は昔、今は今』って思ってることはその人の顔を見れば分かるよ」
 団体の話が出て一気に現実に引き戻された感があり、展覧会の作品搬入日が翌週に迫っていることに気づいた。小笠原君に招待券を渡して在廊ざいろう日を伝え、送り出した頃には夕刻となっていたが、ひとりになって「今、絵に向き合っている人に『戦争画をどう思うか』について聞き出すのも意味がありそうだ」とは思えた、ちょっと勇気のいる行動ではあるが。
 ともあれ、私も「今、絵に向き合っている人」のひとりとして、描き上げたばかりの作品の前に立ってみた。それから団体の仲間が描き上げた作品が並ぶ展覧会場の様子を想像し、そこから今の私が聞き出したいこと、抱えっぱなしの疑問を共有しようとするところを想像してみた。
 なんだか、やはりちょっと難しい、という気はする。聞いてみるだけでもいいのかもしれないけれど。

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