マガジンのカバー画像

無題なんだけど、戦争画をテーマに書いてみた大長編の何かです。

48
数年前に書いた話(小説とかいうのはちょっとおこがましい。小説の書き方的なことを勉強したわけじゃないので)を、去年とある賞に投稿してみるか、と整理/加筆したものを細々と更新。という…
運営しているクリエイター

2023年11月の記事一覧

無題/戦争画をテーマにした物語(第2部のつもり⑤)

  12  2日後、私は漁村風景を描くのを諦めて東京に戻った。九十九里浜に滞在したのは10日ほどだったが、その間の増治はじめ当地の連中との関わりを思い出せばやはり描く気にはなれなかったし、無理に描いてみたとしても卒業制作にふさわしくない仕上がりになるのは明らかだった。嫌な場所を描いてどうする、ろくな仕上がりにならないだろう。そう割り切って、一から仕切り直すことにした。  例えば古刹やお社、そのどこか寂しいような、森閑とした情景。そんなものを描いてみてもいいのかな、と思いもし

無題/戦争画をテーマにした物語(第2部のつもり⑥)

  13  年が明けて、昭和15年。卒業制作へと向かう強烈な意志のベクトルが教室内に満ちていた時期を過ぎ、最上級生すべてが制作を終えて出品し、あとは順位の発表を待つのみとなっていた。それが終わればいよいよ卒業となる。先日のショーへの挑戦が功を奏したのか、友と過ごす日々が残りわずかであることをさすがに実感したか、いがみ合っていた仲間も以前のように親しく交流するようになり、ひどく穏やかな空気が流れていた。  私は年越し返上で作品を仕上げた。もちろん海辺の風景ではなく神社仏閣でも

無題/戦争画をテーマにした物語(第2部のつもり⑦)

  14  卒業式の数日後、私を含む38期卒業生の上位入賞者各科3人は奨学金授与の諸手続きのために芸校に出向いた。昼前に霧雨が降ったが寒くはなく、校舎がある丘は靄に包まれていた。ふわふわするような穏やかな空気の中を、私と青海君、そして三席の平尾君はゆっくり歩いて学校に向かった。 「ついこの間卒業式を終えたばかりなのに、なんだか随分昔のことみたいだな」  平尾君が感慨深げに言った。彼も展覧会入選を目指して制作を続けるが、しばらくは挿絵画家としても活動したいという。卒業式を終え

無題/戦争画をテーマにした物語(第2部のつもり⑧)

  15  12月。私は、陽子とともに新潟へ向かう鈍行列車の車中にいた。青海君の陸軍入隊が決まり、実家を出る前に婚約者の陽子および馴染みの仲間たる私に会いたい、今手掛けている作品を見てほしいから新潟に来ないか、と彼が手紙をくれたのだ。  今回の旅に、平澤君は同行しなかった。早くも富枝がおめでたとなり、もちろん青海君に会いたいが女房をおいて旅行できる状況ではない、と返事を出したそうだ。私は出発前に平澤君と直接会い、青海君への餞別を託されていた。我々は相談し、若い者が包んであげ

無題/戦争画をテーマにした物語(第3部のつもり①)

     16  小生は、大日本帝国陸軍歩兵第16連隊所属、塩谷辰美と申します。貴君の帝都芸術学校時代の学友である青海晴久君が所属した隊の小隊長を務めております。大畑君はじめ、卒業後は商家に婿入りした方など芸術学校の同級生の話、モデル嬢だったという婚約者、また新潟市外にも名の通った大きな神社で生まれ育ったことなどを聞かされておりました。  青海君は幹部候補生のひとりに抜擢され原隊を一時離脱し、仙台の陸軍教導学校で集合教育を受けた時期もありましたが、中国でも仙台でもとにかくよ

無題/戦争画をテーマにした物語(第3部のつもり②)

      17  その週末、私と陽子、それから平澤君(喫茶店に呼び出して、どうにかこうにか伝えた)は新潟へ行って、青海君の葬儀に参列した。  彼がアトリエ代わりにもした拝殿で、我々3人は友人として、前のほうの席に座らせてもらった。神式の祭壇には小さな白木の箱が置かれ、傍らに軍服姿の青海君の遺影、そしてぼろぼろの画帖と絵具箱が並べられていた。「俺達が贈ったやつだ、こっちに届いてよかったな」などと思いながら祭壇をぼんやり眺めているうちに式はどんどん進んでいって、いつの間にか終

無題/戦争画をテーマにした物語(第3部のつもり③)

      18  お盆の後、私は平澤君と食事に出かけた。彼のところに赤紙が来てしまい、「出征前に飯でも食いに行っておこう」と連絡をくれたのだ。この前に会ったのが、青海君の葬儀の時だった。なんだか悲しくなるようなことでばかり彼と顔を合わせている。  平澤君はいつにも増して饒舌だった。芸校の近況などを知りたがった彼に、私は本屋の常連客のひとりでもある島崎先生が聞かせてくれる話をそのまま伝えてやった。平澤君のほうは商売の話やら深川の話やらいろいろ聞かせてくれた、近隣の人々はみな

無題/戦争画をテーマにした物語(第3部のつもり④)

     19  秋が深まった頃、青海君の実家からまた連絡を受けた。お母さんは「元気らったかね」と声をかけてくれた後、過去1年以内に戦地で亡くなった新潟市民の市葬が開かれることになった、と告げた。 「神道の家はうちだけらろうし、面倒かけると悪いかと思うて一旦は断ったんだろもさ。しばらくしたら役所の人がうちに来て『晴久君は芸術学校を首席で卒業したんだし、日本画家として将来を嘱望されていたんだすけ、新潟市としても敬意を表したい。無宗教にして合同でやるすけ、遠慮しねえでくれ』言い

無題/戦争画をテーマにした物語(第3部のつもり⑤)

      20  10日ほど後、私はまた島崎先生との憂鬱な汽車旅を経て新潟に降り立った。市葬は数年前に建てられたばかりの公会堂で行われた。モダニズム様式のすっきりした造りの建物を見た時、出征直前の青海君が川沿いの道を歩きながら、この公会堂のことと芸校建築科の先輩で五人展をともに開いた熊谷さんの話をしてくれたことを思い出した。「熊谷さんは在学中、『ハイカラな建物を新潟にぼんぼん建てるんだ』って言ってたんだけどな。今は建物の面構えなんてどうでもいいんだってさ」とこぼしていた横

無題/戦争画をテーマにした物語(第3部のつもり⑥)

      21  昭和18年秋。小塚に誘われて芸校を中退し、国策雑誌「国防」の挿絵を手がけて人気者になっていた小笠原君が「総合軍事美術展」に入選した。  入学当初に細密描写で我々の度肝を抜いた愛すべき化け物たる彼だったが、いつの間にか油絵に転向したらしい。在学中に先輩の武村さんが「シュールレアリスムにでも挑戦して、ダリやマグリットのような作品を手掛けてみればいいのに」と評価していたのを思い出すまでもないが、中退後しばらく、彼はただ軍の息がかかった例の雑誌で健筆をふるってい

無題/戦争画をテーマにした物語(第3部のつもり⑦)

      22  昭和19年初冬。働き盛りの男達が戦地に引っぱられていったことに加え学童疎開も始まっていたし、郊外の親類を頼って家族ぐるみで疎開する者もちらほら出始めていた。残ったのは私のような者や中高年ばかりだ。割烹着にもんぺ姿のご婦人達が退役軍人や憲兵どのの先導のもと「銃後を守る」との気合十分に、どこかヒステリックに奮闘していたが、それを除けば東京の中心部であるはずの我が街・神田はひっそりと静まり返っていた。  そんなご婦人達に「力を貸して」と言われれば私は喜んで出向

無題/戦争画をテーマにした物語(第3部のつもり⑧)

       23  真柄さんが新潟移住を歓迎する旨綴った返事をくれたのは、12月に入ってからだった。待ってました、とばかり着替えや本などのわずかな荷物をまとめ、昭和20年の侘しい正月を過ごした後、私は肩掛け鞄ひとつ持って東京を飛び出した。  父も店をそのままにして九十九里に引っこんだ。もちろんそれなりに値打ちのある品も書棚には並んでいたが、父は「こんなものが賊に狙われるご時世でもないだろう」などと苦笑いしていた。  新潟に着いたときにまず目を引いたのは、道路の脇に連なる雪

無題/戦争画をテーマにした物語(第3部のつもり⑨)

       24  3月に入り、新潟は晴れる日が増えてきて日も長くなっていた。この時点でまだ佐渡島を見たことがなく、島はどの辺にあるのだろう、どんな風に見えるのか、と海を見やれば初老の先輩が「今日は、ばっかいい凪だ」とかなんとか話しかけてくれる。昼と夜の長さがちょうど半分ずつになる彼岸の日を心待ちにし、毎日ほんの少しずつ日が長くなっていくのに比例して強まっていく明るい気持ちを職場の仲間と共有した時、ほんの少しだが新潟の人に同化したらしいことを自覚して不思議な気分になった。

無題/戦争画をテーマにした物語(第3部のつもり⑩)

        25  梅雨明け直後の、ある夕方。この日は近郊で夏祭りが行われ、昔に比べればはるかに小規模だがお神輿も出る、と青海君のお母さんから聞かされていた。ぎりぎりの状態でも、団子など作ってささやかに祭りを楽しむだけの余裕はあった。私もそうだったが、当時の新潟の人達はたまに来る敵機の姿や機雷投下の話などに慣れてしまえば、実害があまりなかった分だけ呑気に日々を過ごしていた。空襲などの噂も噂どまりで、市街地にはなんの被害も出ていなかったからなおさらだろう。  信濃川沿いを