たった今、人の厚意を踏みにじった
ついさっき、人の厚意をふみにじった。
今日はロッククライミングに行くので湯河原駅でバスを待っていた。
30キロのバックパックをベンチに放置して、そばの広場でストレッチをしていた。
ある男がオレのバックパックを持ち去って行く。さっき逆方向に歩き去った男だ。わざわざ戻って、あたりを見回して持ち去っていく。
オレは〈盗まれた物を〉取り戻すためそっと近づき男の腕をつかんだ。
「どこに行くんですか?それはオレのですよ。」
腕をつかむ強さは、(逃がさないぞ!)という意思がちょうど伝わる絶妙の具合で調整した強さだった。
男は「そこの駅のところに届けようと思って…」と言った。
オレと目線を合わせず、とても気弱そうに、消えてしまいそうな声で言った。
そこには交番があった。
オレはそれが真実かどうか迷い、しばらく沈黙した後「そうですか」と言って荷物を取り戻した。
彼は逃げるように去っていった。
オレは〈してやった感〉に酔った。
…そして数秒後、〈恐ろしい可能性〉に戦慄した。やってしまったのかも知れない。いや、多分やってしまった。
彼は本当に、家に帰るつもりなのに、わざわざ戻って、30キロもの荷物を交番に届けるような、とてもとても親切で優しくて、繊細な人だったのだ。
本当は誠心誠意お礼を言うべき人だった。
その彼をオレはおそらく〈かなりの強さで〉傷つけた。
…寒気がした。自分に寒気がした。
正義感なんて〈毒にしかならない〉って、あれほど身に染みて離婚してまで学んだのに、まだ残っていたのだ。
正義感なんてクソの役にも立たないのにだ。
ほんの少しの正義感がどれほどの殺傷力を持っているか、あれほど理解したはずなのにだ。
オレはまだそういう世界にいるんだ。
〈盗った盗られた〉とか
〈勝った負けた〉とか
〈自分より上か下か〉とかの思考が湧いて出てくる世界に、オレは未だにいる。
傷つく痛みがわかるのに、まだこんなに人を傷つけるのだ。
気弱そうな青年が消えいりそうな表情で、無言で去っていく彼の後ろ姿を見ながら、事もあろうかオレは〈悪いヤツをビビらせて懲らしめた〉と思いながら、自分の正義感に酔ってさえいた。気持ちがいいと思ってしまっていた。
なんて人間なのだろう。オレはなんていう人間なのだろう。
〈人を傷つけながら快感を感じる〉人間なのだ。
いい加減にして欲しい。傷つけたり傷つけられたりはもうたくさんなのに。
オレはコレをどう許せばいいのか分からない。
毒にしかならない正義感が残っている。
許されてはいけない行為と許してはいけない思考だ。
だから、どう許せばいいか分からない。
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後日、ランニング中にバックパックの彼の事を考えていると、ふとある夜の自分を思い出す。オレは〈悪くないのに〉奥さんが給料が少ない的な事を言ってオレを傷つけた夜だ。
オレが傷つけた彼と〈過去の自分〉が頭の中で重なる。
(彼はオレだ)と思う。オレは〈傷ついた自分〉を彼にうつして見ているように思う。
そのイメージのなかでは、傷つけているのも傷つけられているのも、両方がオレだ。
あの時の奥さんの事も許せるようになった。だからオレも自分の事を許そうと思う。
相手が何にも悪くなくて、それでも相手を傷つけたのは、オレも奥さんも一緒にやった取り返しのつかない事だけど、オレは取り返しがついたんだから、いいんだよ。なんか、よくわかんないけど、いい事にしていい気がした。