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短編小説「モバイルバッテリー」
君の隣で目が覚める。
布団の中の君の手を探し当て、君が起きないように握る。
横を見ると君の寝顔が見れて、部屋を見渡すと君の生活が見れる。
ずっとこの時間でいい。このままがいい。
「何か食べる?」
目を閉じたまま君が言う。起きていたのか。
「大丈夫、おなか空いてない」
「じゃあコーヒー淹れるね」
オーバーサイズのスウェットを着て、君は台所に向かう。
「今日何限から?」君は少し眠そうだ。
「午後からだよ」
君はお湯を沸かし、戸棚からピンクのコップと青のコップを取り出す。
「私二限からだから、十時頃に出るね。午後までいていいよ。」
「わかった。ありがとう。」
君はキッチンに立つだけで絵になる。俺は我慢できずに写真を撮る。シャッター音で君がこっちを見たから、もう一枚撮る。君は照れくさそうに笑い、少し儚げな表情を浮かべる。
スウェットは君の指先まで覆っている。
俺は服を着てキッチンに向かい、二つのコップを手に取り、ゆっくりテーブルに運ぶ。
「あ、ありがとう。」コーヒーフィルターをごみ箱に捨てながら君は言った。
「袖長いから、それ。落とされたら困る。」少しからかう様に俺は言う。
「私そんなにドジじゃないよ。」君は無邪気に笑った。
四角いテーブルにコーヒーを置き、地べたに座ると、すぐ隣に君が座ってきた。
「ピンクの方飲んでね。」
「中身違うの?」
「ううん、一緒だけど。」
君が淹れてくれたコーヒーは、少し癖があった。果物のような甘い香りがして、苦味が控えめで、正直好きな味じゃなかった。
「あんまりだった?」俺の表情を汲み取って、君が不安そうに聞いてくる。
「ううん、美味しい。」気の利いたことを言えない俺を、君は優しい目で見つめる。
「そういえば、家出る時にカギ閉めないとだから、鍵貸してもらえる?」
「あー、閉めなくて大丈夫。」
「え?危ないよ。」
「ううん。大丈夫なの。」
鍵を閉めなくていい。その不思議な判断に、俺は昨日した話を思いだす。いや、忘れていたのではなく、考えないようにしていたことだ。
「彼氏さん、来るの?」
「…うん。三時くらいに来るって。」
俺は強がって、平然を装う。
「大学の人?」
「ううん、バイト先の人。」
君に彼氏がいるのは、昨日から知っていたことだった。でも、信じたくなかった。
そんな簡単に認めて欲しくなかった。彼氏なんていないって、俺を騙し続けて欲しかった。
涙ぐむ俺の背中をさすることもなく、君はコップの熱で自分の手を温めながら、窓の外を見つめる。
「このスウェットその人のでさ、着てると落ち着くんだ。この青いコップもその人のお気に入りでさ、これじゃないと嫌って言うの。」
「このコーヒーの味は、その人の好み?」
「うん。」
君は隠そうとしない。俺との関係を、続かせようとしていない。
君と俺しかいないはずのこの部屋に、知らない誰かの痕跡が散らばっている。俺は二人きりだと信じ込み、勝手に舞い上がっていた。
「あ、さっき撮った写真見せてよ。」
俺はスマホを取り出し、その写真を見せる。
「その写真、消して。」
君は言いたくなさそうに言った。
「なんで?」
「君と私は、これっきりってこと。」
君は目を合わせずに言った。
その時、スマホの充電が切れ、画面が真っ暗になった。
画面に映った俺は目が赤く、頬も濡れていた。
「うん。わかった。写真は後で消しておくよ。」
弱い俺は、軽々しくその言葉を発してしまった。覚悟も勇気もないのに、君の言う「これっきり」を受け入れてしまった。
「充電器使っていいよ。」君は言った。
「いや、俺モバイルバッテリー持ってるから。もう、帰るね。」
荷物をまとめ、部屋を見渡し、「おじゃましました」と心でつぶやく。
玄関で靴を履いていると、君は見送りに来てくれた。
「さっき思い出したんだけど、私この前旅行にモバイルバッテリー持って行ってさ。でも遊んだり喋ったりに夢中でスマホの充電あんまり減らなくて、結局昼間はモバイルバッテリー使わなかったの。だからその夜、折角だしと思って、ホテルの充電器使わずにモバイルバッテリーで充電したんだ。笑うよね。私変だなって思う。
今の彼氏ね、思ったより楽しい人だったの。喋ってて退屈しない。だけど、折角だしと思って。ごめんね。」
君は意味ありげに俺を見る。
「俺も、コーヒー残してごめんね。じゃあね。」
切なくて、辛い。だけど、少しでも君の支えになれていたのなら、俺はもう何も言わない。
君と俺は、これっきり。ただそれだけの、単純な話。