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事象の地平面【Event horizon】

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「なにをお願いしましたか?」

隣にいる助手が問うてくる。

先ほど、目の前を通り過ぎていった流れ星に願いごとをしたようだ。

「星に願いを、掛けたりしない」

流れ星は、宇宙の小さな塵芥や星の破片が、地球の大気との摩擦により燃え上がり輝く。

天空のある点で生じ、ある距離を移動して消える現象。

ぼくは科学畑の人間だ。

彼女も科学畑の人間だ。

だけど彼女は、星に願いをかける。

「もぉ、夢がないなぁ~」

「流れ星が流れ終わるまでに、3回願いごとを唱えるということは、現実的にはかなり難しい。1秒以上流れるもの もあるが、平均すると 0.2 秒くらい。単純計算したとして、0.2÷3=0.0666…。願いごとを1回唱えるのに要せる秒数は0.0666…秒、人間には不可能に近い。それに発見してからの人間の反応速度も加わると…」

「もぉ、夢がないなぁ~」

途中で遮られた。

…。

聞き覚えのある言葉に、言葉が詰まる。

「可能か不可能かじゃないんです。するんですよ!」

ここは黙って彼女の演説を聞くことにした。

「よく言うじゃないですか。負けると分かっていても挑まなければならない戦いがあると!」

そんなに鬼気迫るものなのか?

「いいんですよ。とにかく、それで叶えば儲けもんでしょ?」

「そう…なんだ」

「そうなのです!」

彼女の中では確定事項のようだ。

「ところで何をお願いしたかは聞かないんですか?」

「聞かないよ。ぼくにはナンセンスだけれど、願いごとは他人に知られないほうがいいんだろう?」

「そういうところは気にしてくれるんですね」

ふふふと彼女が小さく笑う。

ぼくにはわからない、今はまだ。

今のぼくから言えば、この時点がぼくにとっての「事象の地平面」だったと言えるかもしれない。

わかるのは1826日と23時間後だった。


数式や数字はいい。

確定的で、いつだって1は1で、2は2だ。

数式に変数があったとしても的確な数字を代入すれば解が得られる。

逆に不確定なものは、ぼくを不安にさせる。

けれど今のぼくは、胸の奥の方になにやらモヤモヤした、つかみどころのないものが、不確定なものが最近になって存在していることを知っている。

いや今は、そんなことはいい。

―北海道

場所指定までして、せっかくこんなに多くの星が見られるところに来てるんだ。

気を取り直して、満天の星空を見上げた。

今日は遠くの星まで良く見える。

いつもより空気が澄んでいるからだろう。

これだけ数多くの星が見えるなら…

「宇宙の果ても見えればいいのに…」

澄んだ空気に絆されて、心の声が透け漏れていたのかもしれない。

「たまにはロマンチックなことを言うんですね」

「ロマンチックとは関係ない。君の言うロマンチックとは現実離れした甘美で理想的な雰囲気や成り行きであるさま、甘い情緒や悲壮美に富んでいるさま、またその風を好んだり望んだりするさま、のことだろう?」

「で・す・か・ら、ロマンチックなんですよ」

そう言って、助手はニコニコしている。

頭の中で、はてなマークが飛び交う、何か間違っていただろうか。

「そうですね~『宇宙の果て』もそうですし、わたしたちには、まだまだ分からないことがた~くさんありますね」

「あぁ全く」

宇宙の大きさについては、いまだ分かっていないことが多い。

「宇宙の果て」と言えば2種類の意味がある。

ひとつは、物理的な空間に端があるのか、空間は曲がり繋がって端は無いのか、という問題として扱う場合。

もうひとつの意味としては、人類が観測可能な限界ラインを指すが、

未だ宇宙の本当の果ては確認できて、いない。

「あとブラックホール!」

「ブラックホールか…ちょうど最近、事象の地平面なんてないって研究結果をどこかで見たな」

「ないんですか?!事象の地平面!」

「さぁ、興味深いけれどぼくには分からない。専門分野とは少し離れるから」

「って、じしょーのちへーめん、って何でしたっけ?」

助手が、てへへとはにかんで見せる。

「情報は光や電磁波などにより伝達され、この世界で最も速い光でもさえも到達できなくなる領域が存在し、ここより先の情報を我々は知ることができない。この情報伝達の境界面を指し『事象の地平面』と呼ぶ」

「ほうほう!その事象の地平面が、ブラックホールにはないかもしれないって事ですか?」

「そうだね」

「へぇ~それにしても、そこより先の情報を知ることが出来ないだなんて、何だか、今と未来の関係みたいですね」

「ん~どうだろう、その先に情報が存在するかどうかもあるだろうけれど、今の時点では、その先に情報があるかないかも分からないわけで…」

と言葉を置いて思考を巡らし、じっくり考えてから一言。

そうなのかもしれないね、とだけ答えた。

吐いた息は白く、今までもずっと白かったはずなのに白さが、より一層増している気がした。

北海道だけあって夜は冷える。

防寒には念を入れてきたが、肌に寒さを感じるようになってきた。

冷えてきたなと思っていると、

―くしゅん

隣で助手がくしゃみをした。

「大丈夫?」

「ふぅ冷えてきましたね」

「星もたくさん観測できたし、帰ろうか」

はいっ、という助手の元気な声を聴いたのち、その場をあとにした。


***


あの日から、1826日と23時間後のこと。

ぼくと助手は結婚して夫婦になっていた。

今年で結婚して二年になる。

あの日感じていた胸の奥の方のモヤモヤや、つかみどころのないものは、

妻と一緒になった時から姿を消し、代わりに白くて大きくて温かでふわふわとした、不確かなものに置き換わっている。

けれど、不思議といやではない、から不思議だ。

「あの日、流れ星に願ったの」

ソファーに座ると、隣に居る妻があの日の話しを始める。

「ああ、そんな話したね」

「覚えてるの?」

「ああ、今はあの日から、1826日と23時間後」

「相変わらず凄いわね」

感心しているのか呆れているのか分からないけれど、褒め言葉として受け取っておこう。

「何を願ったか聞きたい?」

「願い事は言わないほうがいいんだろう?」

「いいの、もう叶ってるから」

「何を願ったの?」

あの日を思い出すかのように、妻は目を伏せてゆっくりと言葉を紡ぐ。


「こうして二人で居る時間が続けばいいのにって…」


そんなことを願っていたのかと今わかる。思えばあの時もうすでにぼくは…

「そうだったんだ」

「ほら、お願いする価値があったと思わない?」

「まったくその通りだ」

と言って二人して笑った。

ぼくの肯定の言葉から少し間を空けて、妻が喋りだす。

「でも、二人の時間も、もうお終い…」

目を伏せて、見えないものでも見ているかのように、どこか見つめている。

一瞬のうちに、はてなマークが頭の中を埋め尽くす。

「どういうこと?」

もしかして、他に好きな人が出来た、とか。

何か、気づかないうちに自分が悪いことをしていただろうか、とか。

色々なことを考えて「離婚」の二文字が頭に浮かぶ。

そんなぼくの頭の中を、知ってか知らずか妻が続きを話し始める。


「できたの、赤ちゃん…」

状況がすぐに呑み込めず固まるぼく。

「これからは三人の時間の始まりね」

優しい笑顔で語りかける君を見て、

ああ、そういうことだったのかと理解して、胸の中のふわふわがまた増えた気がした。

あの時、彼女は「事象の地平面」を今と未来との関係みたいだと言った。

あの日、話で出てきた「事象の地平面」、その向こう側には、幸せがつまっていた。

そして、喜びの言葉とともに優しく妻を抱きしめて、新しい家族を笑顔で迎える。

これからもぼくらは確定的で不確定な未来を進んでいく。

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おわり

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