怯えていない人と怯えている人
わたしは小さいときからずっと不安がっていた。先生に怒られたらどうしよう。友達に嫌な思いをさせたらどうしよう。そして、いちばん重大だったのは、親に迷惑をかけたらどうしよう、ということ。父親に迷惑を少しでもかけたら怒鳴られる。いや、迷惑をかけていなくても怒鳴られる。母親は怒らないけれど、疲れた顔をする。
わたしにとって不安は当たり前だった。どんなに小さなことでも不安になる。休み時間が終わったのに喋っている人がいる、先生が怒るかもしれない。横断歩道を渡るとき、急ぐそぶりを見せなければ待っている運転手が怒鳴るかもしれない。電車でぼうっとしていて、詰めるのを忘れていたら後から入ってきた人にどつかれるかもしれない。
人ではないものも怖い。モノレールが線路から外れることってあるのかな。乗っている飛行機が落ちたらどうしよう、なんか変な音がする気がしてきた。ちょっと地面が揺れた気がして、大地震の前触れだったらどうしよう。
そんなわけで毎日大なり小なりに怯えて動悸がしてお腹が痛くなっている。それが変なのだと最近知った。病院でもらったお薬も、初めは効いていたけれど今は効き目を感じない。だからつい飲み過ぎてしまうし、煙草に手が伸びる。
とあるネットラジオで、「家族とか身近な人が突然裏切って殺されるかもしれないことに気がついた」と話している人がいた。それに対して、別のパーソナリティは「そんなこと考えてたら生きていけないよ」と答えていた。そう、そんなこと考えていたら生きていけないんです。まだ生きてるけど。普通の人は周囲に怯えていないどころか怯えていることがおかしいとさえ思っているのだと驚いて、そして悲しくなった。確かに生きていけない、だから死にたくなる。
世界に怯えていない人たちは、安心感、というものを自然と身に付けているのだと思う。それこそ空気みたいに意識なんてしない。自分が傷つけられるわけがない。酷い目に遭うわけなんてない。苦しむわけない。これまでそうだったから、これからもそうだ。無意識に、そう感じているから怯えずに済んでいるんじゃないだろうか。
反対に、幼い頃から恐怖に支配されていたわたしは、怖いことが起こるのが当たり前だと思っている。怒鳴られて当たり前。罵られて当たり前。迷惑と言われたり、呆れられたりしても、それは当たり前だ。傷つくけれど、それも当たり前。ずっとそうだったから、これからもそう。だから世界が怖い。生きているのが嫌だ。
世界に怯えていない人たちがずっと不思議だった。ごく当たり前のように人に話しかけたり、自分がやりたいことを主張したり、頼み事をしたりする。そんな日常のことばかりではなく、当たり前のように結婚したり子どもを持ったりする方が幸せだと言う。
わたしにはあり得ないことばかりだ。人に話しかけるとき、迷惑じゃないかすごく気になる。頼み事なんて迷惑の極みだ。結婚しても相手と合わなかったり、DVしたりされたりしたらどうしよう。子どもを持つとして、障害があっても受け入れて責任を持てるだろうか?虐待してしまわないだろうか?不注意で事故に遭わせてしまったら?
世界に怯えていない人たちは、わたしから見ると驚くほど楽天的で何も考えていない。けれど彼らは彼らの論理で動いているのではないか。世界はこれまで平和だったから、これからもそうだ、と。そう考えると納得できる。方向は正反対でも論理は同じだから。
どちらが良いのか分からない。もちろん、世界に怯えずに暮らせる人生の方が苦痛は少ないだろう。けれど怯えなかったために突然大きな苦しみに出会ってしまったら?そう思うと、簡単に楽天的になんてなれないし、なりたいと思えない。事故が起こるのは確率かもしれないけれど、遭遇した人にはそんなこと一切関係なく100%の不幸だ。
世の中のほとんど、すくなくともわたしが出会うほとんどの人は怯えていない人だ。見えている世界がこんなにも違う。まるでひとりぼっちみたいね。