帰納法的偏見
偏見は良くない。そうですね。しかし、生きている以上、「〇〇というカテゴリの人は××という性質を持っていることが多いらしい」という考えを持ってしまうことは仕方ない点もあるのではないかと思う。
生活する上で、人は細かな情報を切り捨てて生きている。今日ウェブ広告で見た服の値段なんて、覚えていなくても問題ないから。問題ないどころか、それらを覚えている生活がどれほど辛いのかということは、一部の経験者たちの話で窺い知ることができる。
そんなふうに、人に関する情報も削ぎ落として抽象化していく。毎日会う人なら細かなことまで覚えているけれど、たまにしか会わない人の好みまで覚えていることは難しい。興味のない有名人なんて名前すら覚えていることは不可能で、だから薄らぼんやりと「最近の若い子にはこんな感じのアイドルが人気なのかあ」と、”アイドル”という括り以外何ひとつ正しくない情報を頭にしまい込む。実はその人はアイドルではなくYouTuberかもしれないけれど、そんなことはどうでも良い生活を送っている人はなんにも困らないのだ。
そんなわけで、「別に自分は困らないや」と判断してしまうと、頭の中にはとても大雑把なカテゴリが作られ、そこに類似している人は何も考えずに放り込まれていく。それは男は、女は、というものとか、職業、出身、嗜好、その他いろんなカテゴリだ。その分類はその人の価値観とか人生経験による。
そうしてカテゴリに放り込んだ人たちからさらに共通点を抜き出して、〇〇というカテゴリの人はこうなんだ、と認識する。次に同じカテゴリの人が現れたら、その性質と一致しているかどうかを判断する。もしかしたら判断すらせずに決めつけるかもしれない。
ただ、カテゴリにして共通点を探し出す程度には興味があるのだろう。本当にどうでもいいと判断されれば綺麗さっぱり忘れてしまうだろうから。個々に記憶するほどでもないけれど完全に忘れるわけでもない、狭間の記憶に放り込まれる人たち。
一度そのカテゴリが作られてしまうと、どんどん偏見が蓄積されていく。あ、〇〇の人だ、この人は共通点に当てはまるかな。それ以外のことは考えなくなるからだ。その人個人の他の性質は顧みられなくなる。だからある人には特定の偏見が固定化されていくのだ。
初めは生きていくのに大量の情報を扱えないから、という理由で大雑把な分類をしただけだろう。しかしずっと同じことを続けていくことでループに陥る。決めつけた性質が良いとされるものなら、ある種の人々を無条件に称賛することになるし、悪いとされるものなら差別することになる。
さらに悪いことに、人はそれほど多様な分類を持っているわけでもないし、分類そのものにも他人の影響が及ぶ。だから多くの人が持っている偏見というものが生み出されてしまう。そして、やっぱり〇〇の人はこうだ、と決めつけたり、その性質に当てはまらない人のことは忘れたりする。
もともとの人間の性質なのだから、仕方ないと言えば仕方ない。そう考えること自体を止めろと言われても不可能なのだから。けれど、ある人に対して、あなたは〇〇だからこうに違いないと発言したり行動に移してしまうことは、減らせるのではないかと思う。
自分がついカテゴリ分けして同一視してしまう人。△△さんは、ではなく、〇〇の人は、と言ってしまいたくなるとき。それに気がつけば、これはちょっと口にしちゃいけないな、と立ち止まることができるかもしれない。
それでも、これだから〇〇の人は、という気持ちがなくなるわけではないだろう。特に悪い性質を持っているのではないかと考えて、いやそうでない人もいるのだと思おうとしたのに、次々に同じ性質を持った同じカテゴリの人が現れるとき。少なくともそう感じるときに、それでもうんざりせずにいられる人はどれくらいいるのだろう。わたしには出来ない。
だから口に出す前に考えてみることが出来たらいいね、という話だ。現実には言葉が先走っていることがあるのだけれど。