全人類幸せになって欲しいんだ できない?それならみんな滅んで

 世界が平和になりますように、みんなが幸せになりますように。子どもの頃から、何かお祈りをするときはそんなことばかり願っていた。土地柄、平和教育として幼い頃から戦争の話を聞いていたからかもしれないし、親に怒鳴られる日々が辛くて世界中みんな不幸なのかもしれないと怯えていたからかもしれないし、あるいはそういう性質に生まれついただけかもしれない。

 そして同時に、その願いが叶うことはないということも分かっていた。今日も遠い国のどこかでは飢えるひとがいて、同じ国にも虐げられているひとがいて、もしかしたら隣の家のひとは病気に苦しんでいるかもしれないこと。その一つひとつを認識することが辛かった。どうしてか心が痛むから。

 別に僕は優しくなんかない。電車で困っていそうなひとを見て見ぬふりしたことだってある。やっていることは特に何も偉くなんかない。みんなが幸せになって欲しいと思うのも、突き詰めれば自分が嫌な思いをしたくないから、ただそれだけ。

 インターネットで色んなものを見聞きしているうちに、反出生主義という考えを知った。非存在は存在より良い。確かにそうかもしれない。生まれてきたからひとは苦しむ。幸せなことがあるかもしれないけれど、ないかもしれない。あっても苦痛の方が大きいかもしれない。それなら「生まれてこないほうがよかった」のだ。
 そこで本を読んでみたりインターネットの記事をいくつか読んでみたりした。結局どれも哲学がイデオロギーの話だった。”主義”なのだから当たり前か。僕が知りたかった議論は今のところ見つけられていない。

 僕が知りたいこと、正確には他の人の考えを知りたいこと、は「人類がみんな幸福になるにはどうしたら良いか」だった。そして、それはほぼ確実に不可能だと思ったから、反出生主義という考えに惹かれた。人類が新しく生まれなければ、苦しむ人類はいなくなる。それだってほぼ不可能なのだけれど、いまこの考えが広まりつつあると知って、なんとなく嬉しかったのだ。自分と同じ考えの人がどこかにいたらいいな、と。でも反出生主義は、存在しない方がより”よい”という主張が軸なので、そこに至った経緯だとかこの主張を元にどうするかとか、それは十人十色だ。僕みたいな理由で反出生主義を良いかもしれないと思ったひともいるかもしれないし、そうでないひともいる。

 ここで言う人類はホモ・サピエンスのことだ。僕はどうやら科学という宗教にどっぷり浸かってしまっているようなので、このような区切りが適切だと考えている。他にも苦痛を感じる生物はいるが、そこまで拡張する前に問題は山積みなので、一旦は考えないでおく。同様に、サピエンス以外のヒトが現れた/発見された場合についても今は考えない。

 ここで僕の願いは、「すべてのホモ・サピエンスが幸福になること」と再定義された。サピエンスであれば、性別も、肌の色も、障害の有無も関係ない。たくさんの生命維持装置で生きていて、反応がないようなひとでも、もちろんサピエンスの一員だ。

 次に問題になるのは、幸福がどのような状態なのかということ。これは人によって異なるし、主観でもあるし、ただ脳内物質の濃度で決まっているだけかもしれない。ここを少し考えてみる。

 あなたが幸せと思う状態にしてあげます、として活動するとする。これはたぶん目的に沿わない行動だと思う。理由のひとつは、利害関係によって不幸になる人が出る可能性があるから。あの子と結婚したい、あの子を殺したい、そういった相手があることは調整が難しい。つぎに、多くの人は自分でもどんな状態が幸せか分からないから。結婚したら幸せだろうと思って、実際はパートナーにDVされる。良い大学に受かったら幸せだろうと思ったけれど、実際は課題と就活に追われ何も楽しくない。そんなことはいくらでもある。だからランプの精よろしくあなたの願いを叶えます、というのでは状況は良くならないだろう。

 つぎに直接脳みそをどうにかしてしまうという方法。ロボトミーで分かったように外科的手術は有害事象が多すぎると予想されるので、薬物か、侵襲的なものでも電極などの利用が候補に上がるだろう。今の時点では、副作用や問題点もあるが実行不可能ではない、といったところか。上手く身体の機能を損なわず、気分だけを制御できれば、全人類の幸福にかなり近づく。少なくとも最初の案より上手くいきそうだ。
 こういうものはディストピアとされがちだけれど、実際にはどうなのだろうか。直観としては確かに倫理的ではない感じがする。しかし、少し反論を考えてみても、人は自分の健康その他のために色んな機械や薬や手術をしているのだから、そういった点では問題ないと思う。悪用されたら?それは問題として残る。適切な管理者が存在し、技術が確立されたら可能かもしれない、という案だ。

 三つ目は、いまある「人権」の概念を徹底すること。現在定義されている人権が守られていれば幸福と認定することで、客観的に幸福を決める。人権に関する議論はまだ続いており、日々認識も変わっているが、まずは生存権などもっとも基本的なものを守ることから、だろうか。人権宣言や子どもの権利条約など、国際的なルールを採用することで客観性を保てるだろう。
 そうして、人権を侵害されないように、制度と技術で人々を幸せにする。飢えや病、戦争は普遍的な不幸で人権侵害だ。だからAIやロボットが農作物を作り畜産や漁業を行い、診断や手術をする。戦争自体はヒトが存在する限り起こるだろうが、これもAIに機械的に止めてもらう。
 これらを実現するにはロボットやAI、心理学や社会学などのより詳細なメカニズムの解明が必要になるだろう。ヒトとしての様々な側面、ヒトが抱える様々な問題とその解決策を発見したそれを行う。AIの進歩にかけるとすれば、そのステップ全てを人間以外の手で行うことができるだろう。

 究極的には、人間を「ホモ・サピエンスである」という視点のみで捉え、その他のことはホモ・サピエンスに付随した事象だと考えれば良い。障害の有無など些細なことだ。もちろん人権を守るためのケアの内容は変わるが、結果から見ると同じレベルで人権が守られる。この世界で人々は、全てを「そうである」として捉えなければならない。つまり、他人は「ホモ・サピエンスとして存在している」それ以上でも以下でもない。容姿の良し悪しとか、勉強が出来るかなど、ただ「そうである」だけで生きるのには全く何の関係もない。みんながそう思わなければ、人権を守り切ったところでもっともっとと上を目指して競争する人が出てくるだけだ。

 こうやって、ほんのちょっと考えてみただけでも、解決策に対してあっという間に問題点が見つかる。だからこそ反出生主義に惹かれる。ホモ・サピエンスさえいなくなれば、問題は全て解決だ、と。

 でもって、ここに書いたことは全てまったく実現不可能である。少なくともいまは。そして僕如きにどうにか出来ることではない。けれど曖昧な青写真を描いてみたって、罰は当たらないだろう。
 人類はみんなホモ・サピエンスだし、それ以上でも以下でもない。

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