作品の意味は誰のもの
小説や漫画、映画や演劇やアニメ、曲の歌詞や詩歌など、ことばが使われた作品に触れたひとの中には、そこに意味を見出そうとするひとも多くいるだろう。
そのときに、この当時の作者はこんな状況だったから、とか作者はこんな性格らしいから、などという視点から意味を考えるのは、わたしは好きではない。なんなら、作者自身がインタビューでこんな意味の作品だ、と言っていたとしても、それを積極的に考慮してどんな意味があるのかを考えたりすることは少ない。
それは、作品が人々に見られる状況になった瞬間、作品は作者の手元から離れたとみなせる、と思っているからだ。
曲を聴いて心を動かされた。本のこのシーンが好きだ。主人公のセリフはこんな意図があるのではないか。
作者とか関係なく、自分の感じたように受け止めて咀嚼してみる。もちろん、作者や他のひとの解説が影響することはあるけれど。少しテクスト論的、といえるのかもしれない。
作品の意図するものに、『正解』があるとは思っていない。作者の意図とは全く違う捉え方をする受け手がいたって問題ないはずだし、ましてや評論家の意見に乗っかる必要なんて全くないのだ。
きちんとした研究や批評を目指すものではなく、自分の心を動かしたもの、興味を惹かれたもの、もっと考えたいと思ったものがあるのならば、それを作者や時代とひとまず切り離して自分の中だけで考えてみたい。そうやって捏ねくり回したあとに、そうしたければ作品の周辺の情報を集める。また考えが変わるかもしれないし。
こう感じた、ということを裏切るような事実に出会ってしまった時に、作品は独立と思ってもショックを受けてしまうこともあるので、敢えて調べないこともある。
しかし逆に、作者の人間性を知っているからこそ面白い、ということもある。作者がこのバンドが好きだからこの曲名が出てきたんだな、とかここが作者の地元だからクライマックスの舞台なんだな、とか。
話が飛んでしまうが、それがAIと人間の書いた作品の違いになるのかもしれないと思う。すでに「AIのべりすと」などで多くの作品が生み出されている。しかしAIが独自の人格を得るまでは、作者の人間性、生きた時代、好みなどが作品に反映されることで浮かび上がる意味、というものは人間が生み出した作品からしか得ることができない。そこが強みだと思う。後ろに生身の人間がいる、ということの。
わたしは、作品がわたしに与えた影響、というのは作者の意図その他とは出来る限り結びつけたくない。作品と直接繋がっていたいのだ。その一方で、作品から作者のひととなりや背景を感じるのは好きだ。矛盾しつつ、学問ではなく楽しみとしての鑑賞として、そんな見方もありじゃないかな、と思う。