そこにある格差、上にも下にも、
わたしはそれなりに恵まれていると思う。家庭環境は悪かったにしろ、教育に関しては際限なくと言っていいくらいお金をかけてくれた。旅行も連れて行ってもらったし、習い事だってさせてもらった。
けれどやっぱり、ひとと比べてしまう。わたしの地元は大都市に行くには必ず飛行機に乗らなければならなかった。だから行きたい博物館の特別展示とか、アーティストの公演は諦めなければならなかった。東京にいる人は電車で、もっと運の良い人は自転車で上野の博物館や美術館を巡ることが出来るのだろう。高校生でも東大の特別講義だって直接参加出来るし、もしかしたら研究室に出入りさせてもらえるかもしれない。
わたしは自分なりに勉強を頑張って、それなりに良い大学に入った。それだって恵まれている。才能にも、運にも、環境にも。でもやっぱり大学に入って、見たこともないような世界があった。
両親揃って医者だとか教授だとか、父親は大企業勤めだとか、そんな人がたくさんいた。海外経験がある人も多くて、帰国子女や留学していた子は珍しい存在ではなかった。もちろんそんな人たちにも苦労はあるのだと思うけれど、羨ましいなと思った。
わたしの両親は普通の中高を出て、短大卒と大卒だ。普通、と言ったけれど、母親の中学はカツアゲなんて当たり前、学年に補導される子は何人もいて常に荒れていたらしい。父親に関しては知らないけれど、少なくともそんな母親の中学よりも遥かに田舎の学校を出ている。そもそも大学に行く人なんているんですか、という世界だ。
そこから一世代で、帰国子女が沢山いるような環境にまでたどり着いたのは奇跡みたいにも思える。本当に運が良かった。それでも、周りが羨ましく思える。みんな当たり前みたいに英語が話せて、親と研究の話が出来て。なんだか周回遅れみたいに思えてしまう。
わたしはこうやってペーパーテストで違う世界に食い込める最後の世代だったんじゃないかという気がする。大学も、下手したら高校も、推薦で決まってしまって、課外活動が重視されるようになる。入試の成績が良ければ入れる大学でも、その対策をするための塾やいい先生は都会にばかりある。そもそも大学に行った人が周りにいるかどうか、というところから違うのだ。
わたしが最後の世代で、もし子どもを作ったらその子はわたしが憧れた同級生たちのような環境を手にすることが出来るかもしれない。けれどその間に、同級生の子どもたちはもっと先に行っているように思える。もうこの差は巻き返せないし、巻き返そうという気もない。子どもを持つつもりはないから。
せっかく情報化社会になったのに、なったからこそ、どんどん格差が広がっていく気がする。情報を手にしたひとはさらに情報を手に入れられる。わたしの両親はそれに気がつかなかったからか、大学に入るまでわたしにインターネットを使わせようとしなかった。大学で出会った人たちは、インターネットで色んな機会を知ったり友達を作るのが上手いと感じた。それもやっぱり、家庭環境の差なのだろうか。
本当はこんな格差が生じないために福祉があるのに、上手くいってはいない。わたしは地元では恵まれている方だと思っていたし、実際そうだと思うけれど、全国的に見たら一世代ぶん遅れているのだ。他の人たちは、と思うと、その差はお互いがお互いを認識出来ないくらいだと思う。
わたし、頑張ってきたつもりだけれど、やっぱり生まれた環境で差をつけられていたんだな、と嘆きたい。せめてインターネットの端っこでは愚痴を言わせてほしい。同時に、わたしは恵まれている方でもあると思っていて、ノブレスオブリージュじゃないけれど、出来ることは何か社会に還元したいとも思っている。妙なところに立っているわたしは、もしかしたら、色々見ることが出来るラッキーな場所にいるのかもしれない。