Spread Your Wings
空を飛べるようになりたい、と思う。これは比喩だけれど。
高校一年生の時に受けた現代文の授業は衝撃的だった。九州大学の過去問を解けと言われ、何やら難しい文章を読まされ、分かったような分からないような解答を書き記す。解き終わるか終わらないかのうちに解説が始まった。
その授業のテーマは構造主義についてだった。まるでマジックの種明かしのような鮮やかなその解説に、私は夢中になった。こんな世界が、こんな思想があったのかと感動した。
それは祝福であり呪いだった。
先生は高校生が知りもしないような知識を与えてくれた。それは魔法だった。世界は構造によって分かたれていた。世界は言葉で出来ていた。世界は恣意的なもので、主観的なもので、そして目の前にある現実だった。
次々と披露される新しい考え方に魅了され、思わず笑ってそして感心してしまうようなたとえ話に夢中になった。授業とは思えないほどの楽しさだった。今までの国語の授業は何だったんだろう。
一番記憶に残っているのは、「常識」についての話だ。学年の最後の授業で、先生は「恣意的」という言葉を覚えておいて欲しいと言った。先生の授業に魅了されていた私は、もちろんそのことを覚えそして考え続けていた。
常識はある意味で偏見である。アインシュタインではないが、確かにそうだと思う。日本での常識はイギリスでの非常識。偏見は良くないものと現在では思われているけれど、素早く自分のためになる判断を下せるという点では非常に優れており、だからこそ消えないのだろう。
常識とは大きな木の根のようなものだと教えられた。自分の生きてきた環境にしっかりと根を下ろし、そして固執し、自分自身を保つ。しかしその場から動くことはできない。日本の常識はイギリスでは通用しないのだから。
自分や身近な人々を守るもの。よそものを排除するもの。自分自身をその場所その時代へ縛り付けるもの。それが常識だと私は考えた。
常識は「恣意的」である。女性は家事育児を担当すべきとか、逆にそれは抑圧だとか、人権だとか、そういうものは人間がその時代その場所で生きやすいように決めた勝手な規則や思考に過ぎない。だから常識は疑うことができる。
常識とは根のようなものだ、と言われた時に、それならば常識を疑うとは自分を立たせる根っこを失うことだと思った。自分が当たり前だと思っていること、自分が立っている場所、そして自分自身の存在を疑い、最終的には失ってしまうことだと思った。
そんなこと、誰がしたいと思うだろうか。自分を失うなんて苦痛の中でもかなり上位のものではないか。しかし先生の授業に魅了されていた私はその方が良いと思ってしまった。自分の存在すら失いかけても、常識を疑う方が良いと。まるで呪いだった。同時に私にとっては祝福だった。なぜなら、それを考えること以上に甘美なことなどなかったのだから。
根っこがなければ空を飛べると思った。その土地に縛り付けられていればどこにも行けない。根を捨ててしまえば、私は自由だ。どこまでも自由に飛んでいける。
しかしそのためには翼が必要だ。翼がなければ、時代や他の人の常識や暴力といった強い風に吹き飛ばされてしまう。元来それらから自分を守るものが常識だった筈だ。根がなければそれらの前で私は無力だ。だから私には何としても翼が必要だ。高校生の私はそう考えた。
翼とは何だろう。それは知識であり、思考であり、そして勇気だ。自らが持つ常識、もとい偏見を正確に把握するための知識。それがどの程度正しく現実に適応できるかを考察するための思考。そしてそれらから得られた結論を実行に移すための勇気。
そのどれもが私には足りない。遥か昔に高校を卒業した今でもそう思う。だから翼が欲しい。翼を広げて、自由を得て、そして果てしない世界へと旅立つために。
どこでその翼を手に入れられるのだろうか。大学で勉強したら良いのだろうか。本を読めば良いのだろうか。いろんな経験を積めば良いのだろうか。たくさんの人と出会ったら良いのだろうか。精神を鍛えたら良いのだろうか。
答えは見つからない。今の私には、ただ足掻くことしか出来ない。いつの日か翼を手に入れられると信じて、吹き荒れる現実の風に飛ばされながら藻掻くしかない。その日が来るなんて夢物語だったとしても。
That‘s because you’re a free man.
(Comme on honey, Fly withe me)