曖昧ドライ
僕って実は、夢想家なのかもしれない。だってみんな幸せになって欲しいと思っているし、誰にも傷ついて欲しくないと思っているし、どこかで人と人は分かり合えると思っている。
それは例えば教科書に描かれているような類の人間像で。愛や友情で結ばれた人間関係。思いやりと思慮深さに支えられた社会。これが理想系だと記された世界。
そんなものないと思っているつもりだった。だから結婚とか愛とか馬鹿らしいなんて思っていた。そのつもりだった。
けれど心のどこかで、他の人以上に、そんな「理想」の世界を切望しているんじゃないかという気がした。
例えば僕は、何かしてもらったらきちんとお返しなり同じように手伝うなりしなきゃと思う。それが出来ないとき、とても苦しい。ずぼらな僕はもちろん忘れてしまうこともあるけれど、それに気がつくと焦り、不義理を後悔する。
お喋りしていても、後であの言葉で傷つけてしまったんじゃないかとか、この話題は口にすべきじゃなかったよなとか、あの子会話に入れてなかった、なんて反省会をしてしまう。話している間もそれは考えていて、でも会話のスピードは速いから追いつけないことばかりで。
僕の嫌われたくないとか傷つけたくないとか、そんな思いは、人間って本当は愛や優しさに溢れているって心のどこかで思っているからなんじゃないのか。もし、人間は裏切るもので、悪い奴も嫌な奴もたくさんいるんだって思っていたら、自分だって相手を傷つけたりすることにそんなに抵抗を覚えないんじゃないかって。
周りの人は、あまり人が困るとか傷つくとかそんなことを気にしていないような感じがする。僕の基準で言ってしまうと、優しくない。でも僕はその優しくなさにも理由を見出そうとしてしまう。人のために声をかけるって勇気がいるもんね。もしかしたらあの人も何かで困っているのかも。そうやって、みんな優しいんだ、今優しくないと感じるのは理由があるんだって考える。
けれど実はみんな、愛とか優しさなんて信じてないんじゃないだろうか?
例えば何人かで話している時、話に入れない疎外感を知っているからこそみんなが楽しいか気になる。でもそれは、他の人が僕を置いてけぼりにして盛り上がる経験が何度もあったということ。
少しの言葉で傷つくと知っているから、自分が発した言葉に後悔する。でも僕を傷つけたひとは、それなりにたくさんいる。
だから他の人は、あまり深く考えてなんかなくて、なんなら優しさとかのことは忘れてただ交流しているんじゃないかと思う。もちろんそうじゃない人もいる。けれどどちらかというと、考えていない方が多数派、のような気がする。
でもみんな、ラブストーリーや感動的な話に涙したり、そんな作品は大ヒットしたりするよね?それも雰囲気のような気がする。これが感動、泣ける、良い話、そんなもののテンプレートがあって、そればかりが持ち上げられるから。テレビ、映画、新聞からTwitterまで。「いい話」のオンパレード。僕はそういう「いい話」に感動出来ないことがよくある。この話の裏で傷ついている人のことを考えてしまうから。
世界って、僕が思っているより優しくないのかもしれない。優しそうに見えるのはその場のノリってやつで、僕が考えている優しさとは違う。人が傷つくかどうかはあんまり考えてない。そんな曖昧でドライな感覚が多数派なのかもしれない。
そんなこと言ってる僕がひねくれているのだろうとは思うけれど。でもやっぱり、この仮説で世界は、少なくとも僕が見る世界は、回っているように思うのだ。