「親」を見て不安に思うわけ
周りには誰かの「親」であるひとが沢山いる。父親も母親も。最近は父親も育児をするのが当たり前になったからか、男の人たちも保育園についてやご飯について、そのほか子育てにまつわる話を良くしている。
それを聞きながら僕はとても不安になる。たいてい、子育ての話は「大変」「どうしたらいいんだろう」に終始する。それだけ実際に大変なんだろうし、答えのない問題に日々直面しているのだろう。でもそれらは僕を不安にし、そして苛立たせる。
どうしてだろう。でもこんな話、noteに下手したら2桁は記事を上げている。それでもまだ書き足りない、心の中の霧は晴れない。それどころか深くなっていって、今や見ず知らずの画面の向こうのひとどころか毎日会うひとすら「親」であるというだけで心のどこかに暗い影が落ちる。
この頃考えたことは、こういう親の話は常に一人称が「親である私」だから辛いんじゃないか、ということだ。「親である私」にとって育児は大変、疲れる。「親である私」にとって子どもの学校や塾や習い事は悩みの種。「親である私」にとって子どもは可愛い。そこに「子ども」にとって、という視点が欠けている。
もちろん、親のほとんどは「子ども」のことを考えているから大変だし悩むんだ、と言うだろう。そしてそれは本心なんだと思う。でも、本当の意味で「子ども」の視点に立つことはできない。
それは親が悪い訳ではない。人間、どうしたって真の意味で他者の視点に立つことなんて出来ないのだから。それが親子であっても。所詮は他人、他人の脳内なんて見えやしない。
でも、そのことを意識して欲しい、と思う。「親である私」はこれが「子供のため」と考えている、と。結局は自分視点から100%抜け出すことは不可能なんだ、と。
世間話でも、Twitterの短い呟きでも、noteに綴られた長文でも、親がする子どもの話は全部親目線。子どもからしたらどうだろう、という視点はすっぽりと抜けている。それが抜けているという自覚もなさそうなのがさらに怖い。それが僕を不安にする一因でもある。
別に子どもの視点を忘れて話す時があってもいいのだ。でもそうじゃない場面を見たことがない。ということは親って実のところ子どもの視点というものを常に忘れているのではないか。それが怖い。
僕の母親だって、そのことは忘れていた。つい最近まで。僕が精神疾患になり、学校を辞め、自殺未遂をするまで。やっと、「親である私」は「子どもであるあなた」のことを理解は出来ない、でも出来るだけ「子どもであるあなた」の助けになりたい、そんなことを言ってくれるようになった。ここまで四半世紀かかった。
人間には言葉がある。考えたことを伝えることが出来る。だから、ここに書いたことを、少しでも考えてくれる「親であるあなた」がいますように。四半世紀もかける必要なんてないんだから。