情けは人のためならずを信じていて
noteに、いい人を辞めよう、と書いた。人と関わらないようにしようと書いた。
もちろん、あっさり人との関係がなくなることはなくて、まだ「外向けの自分」が残っている。外へ向ける顔を作る時間が長いほど苦しい。
ひとに優しくする理由は、誰かが辛い思いをするのが嫌だから、と書いた。もちろん今でもそう思っているのだけれど、他にも理由があるんじゃないかと思った。
わたしがひとに優しくする。それはこの世に優しさというものがあって、共感や救いがあるんだと信じたいからだ。わたしがひとに振り撒いている優しさはわたしが欲しい優しさだ。わたしがまだ貰ったことのない優しさだ。そんな優しさがどこかに存在していると信じるために、わたしはひとに優しくする。
わたしがいい人を辞めたら、この世から優しさなんて返ってこないと思う。ただでさえ、どちらかといえば何かする方が多い人生だった。それなのに、いい人を辞めてしまったら、わたしが救われる可能性なんてゼロになってしまうんじゃないかと思う。
わたしはわたしが出来るだけ「いい人」であり続けることで、この世はまだ悪くないと信じたいのだ。わたしは優しく出来る。なら少なくとも世界にひとつは優しさがある。だからまだ大丈夫だ、って。
書いていて、わたしは他の人の優しさを認識はすれど受け止められていないなと思った。ある人の言葉、行動、それらが優しさからのものだとは理解できる。ありがたいと思う。でもそれでほっとしたとか安心したとか、そんな経験はほとんどない。わたしの心に開いた穴はみんなからは見えない位置にあって、そのくせ底が抜けているから、どんなに優しさをそそがれても漏れていく。あるいは穴にさえ入らずこぼれ落ちていく。
せめて、心の穴の底が塞げたなら。せめて、分かりやすい心の傷だったら。そうだったら、みんなの優しさをもっと素直に受け止められたのかもしれない。