生きる、細いたくさんの繋がり

 生きる意味ってなんですか?

 そんなものなんてない、と僕は思う。ただうっかり生まれてしまって、まだ死んでないから生きている、ただそれだけ。

 それでも生きている理由みたいなものを見つけたような気分になるときがある。

 今日はシン・仮面ライダーの公開日が発表された。ずっと待っていた。もしかしたら延期になるかもしれないと思っていた。必ず観に行く、と決めていた。だからその日までは死ねないのだ。生きねばならないのだ。それが今の、僕の生きる理由だ。

 数年前、QALのライブを観る前も同じことを思っていた。チケットを取ったあと、これを観たらもう思い残すことは何もないと思った。ライブが終わったらてきとうな時期に死のうと思っていた。出来ればメンバーが死ぬ前に死にたいと思った。

 それなのにまだ生きている。何度も死のうと思って、一度は実際に行動して、それでも生きている。それどころか、一見普通の、どちらかと言えば色々頑張っているにんげんとして生きている。

 とてもへんな気分だ。まるで自分に嘘をついているみたい。初めて死にたいと思った小3の自分、その自分に、3年前の自分に、嘘をつき続けて生きている。

 僕を生に繋ぎ止めているのは、たくさんの細い糸なのだと思う。まだ読み終わっていない、買っただけの小説。途中までしか見ていないアニメ。好きなバンドの新曲。作ろうと思っているミニチュアやアクセサリーのこと。書きたいと思っている詩や小説のこと、それらの装丁のアイデア。今やっている研究、まだアクセプトされていない論文、今度出る学会。これをしたら、これが終わったら、そんなものが無限に、夢幻に続いていく。

 同時に死に惹かれる自分もいる。高いビルを見て、階数を数えて、あの窓は開くんだろうかなんて思う。深夜なら誰も通らないだろう。通販サイトでメスや注射針が売っているのを探す。ここを切れば、あの薬を打てば、そんなことを考える。電車を待っている間、特急が通っていく。その風を感じながら、あと一歩だったな、と思う。いつもいつも、死ぬ方法が頭を過ぎる。

 こういうことをひととおり考えたあと、にんげんのことについては何一つ考えていなかったことを思う。親はどう思うか、友達は、先生は、なんてことを考えるのはいちばん最後。考えて、別にどうでもいい、と思う。悲しむかもしれないし、自分を責めるかもしれない。でもそんなのどうでもいい。僕が死んだあと、その様子なんて見ることはない筈だから。むしろ、後片付けするひとが可哀想だななんて知らないひとのことを思う。僕を知っているひとたちのことは、本当にどうでもいいんだ、申し訳ないけれど。だって、生きている今ずっとあなた達に気を遣ってきたじゃないですか。気付いてないかもしれないけど。ずっと親切にしてきたじゃないですか。それなのに助けてくれなかったじゃないですか。苦しんでいるのに気づいてくれなかったじゃないですか。見て見ぬふりしたじゃないですか。だからどうでもいい。死ぬときくらい、誰にも気を遣いたくないから。

 でもやっぱり、すこしはひとのことも考えるかもしれない。遊びの約束をしていた。それは行こうかな。今度この実験をしようって話をした。それは一緒にやってもいいかな。カウンセリングの日が決まっていたんだった。それまでは生きていよう、話すことがあるんだった。

 こんなにも細い糸、それぞれはあっさりと切ってしまって構わない。自分ではそう思っている。別に何も作れなかったとして、後悔しないから。でもこんなにたくさんある。細い細い糸が。全部切るのはたいへん。やっぱりこれは、って途中で思うの。だからまだ生きているんだろうな、きっと。

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