ペルソナ、アイデンティティ
誰にだってペルソナはある。当たり前の話。友達に見せる顔と親に見せる顔と先生や上司に見せる顔は違う。それがにんげんってやつ。
でもどうして、僕はペルソナが変わっていくのが嫌いなんだろう。嘘ついてる気分になるから。自分にも相手にも。「にんげん」に対するペルソナは全部嫌いだ。「にんげん」という存在、社会性、常識、価値観、多数派、そんなものが嫌いなのに、それに合うようなペルソナを演じざるをえないから。だから嫌い。
そうしたら、一人ぼっちになるしかないっておもう。確かにひとりで何かしてる時間は好きだ。絵を描いたり、何か作ったり、文章を書いたり。「ひとり」というペルソナ、或いは自我そのもの、それなら好きになれるとおもう。
でもにんげん、ずっと一人なんて訳にはいかない。どうしたらいいんだろう。好きなことして、そんな自分を好きになれば、他のペルソナのことも好きになれるだろうか。
「にんげん」に対するペルソナは、不安と不信と絶望に満ちている。どうせ裏切られる、分かってくれない、という諦め。だから嫌いだ。でも誰か分かって、とも思う。
僕は鬱とかアダルトチルドレンとかそんなものにアイデンティティを感じすぎているのかもしれない。でも手放すことなんて出来るだろうか?この免罪符がなければ、自己否定と自己嫌悪と他者不信と怠惰の罪深い僕はもう生きてはいけまい。いつかは手放さなければならないとは思っている。そのときが自由になるときだと。
でもいまは、そんな力なんてどこにもない。どこにもないんだよ。魔法みたいに全部が解決したりはしない。どうしたらいいって言うんだよ。
くそったれ、クソみたいな人生、クソみたいな世界、クソみたいなにんげんたち。くたばっちまえよ。
たぶんそうやって怒ることができたら、少しはマシになるのかな