コンプレックス、操り人形
時折、自分が誰だか分からなくなることがある。それは決まって誰かと楽しくおしゃべりした後だ。相手の話題に合わせて、まあそれなりに自分の話もしつつ、あまり中身のない会話を繰り広げる。時には将来の話とか、勉強の話もして、有意義な話にもなっているのだろうけれど、会話というスピードの速いキャッチボールでは思考よりも反射神経が大事だ。だからこうして文章に書いているような、あるいは一人で考えているような思考は行われていない。そして会話が終わり、相手と別れた後に反芻した会話が自分とは思えないほど軽いものだったことに愕然とする。反射神経に操られていた自分は本当の自分ではないのだ、と叫びたくなる。
以前に自分は嘘つきだとnoteに書いたことがある。それも半分は間違いで、確かに会話の中で真実を、普段考えていることと同じことを話している時もあるのだ。今やりたいと思っていること、ちょっと苦手なあの人のこと、最近見た映画のこと。けれど意識的にも無意識でも、相手に合わせて開示する情報を選び、時には大きくならない程度の嘘をつき、事実を削って嘘を盛る。興味のない話でもそれなりの反応をして、楽しげに話す。だから半分は(もしかしたらそれ以上は)嘘つきだ。
そんなの誰もがやっていることだよ、と思われることだろう。それが社会性ってやつだ。だから気に病むこともないのかもしれない。しかし一人になった瞬間の、なんとも言えない疎外感が苦しい。一人でいる方が楽に思える。何も飾らず、遠慮せず、引かれそうなことまで考えて、たまにnoteに自分の考えを書き殴っているときの方が楽しいように思える。別に友達と話しているのが苦痛なわけでもなく、楽しかったね、というのは嘘ではない。しかしその「楽しかったね」のなかに何か不純物が混じっているような気がしてしまう。
反射神経の会話の中で、自分とは違う意見に同調したふりをしてしまうことがある。多分それが一番苦痛なのだ。「子供ってかわいいね。いつか自分も欲しいな」「〇〇ちゃんの彼氏ってどんな子なのかな」「とひろちゃんも彼氏作らないの?」なんて会話に、曖昧に笑って頷く。「〇〇ちゃんたち上手くいってるといいね」「あのカップルは意外だったよね」「自分はまだ自由な方がいいかな」なんて答える。別に誰と誰が付き合っていようが興味などなく、子供を産むにしたって可愛いとか以前に倫理面などについて考えるべきことがあると思っており、自分としては恋人の有無など詮索されたくはないし、それ以前に思い切り恋人の性別を初手から決められている(自分のセクシュアリティについては自分でもよく分かっていないところがあって、ものすごく不快だというわけではないのだけれど)。別に悪気なんてないと分かっているし、このご時世みんな多様性が大事だなんてことくらい知っているはずだ。けれど会話の中ではごく自然にそんな話が出てくる。結婚はいいことだとか、子供がいるのが良いことだとか、恋愛に興味があるとか、そういう「普通」でコーティングされたある種の偏見たちについ同調してしまう。こんなところでそんな議論しててもしょうがないか、とか面倒くさいやつだと思われたくないとか、そもそも反射神経に操られてその瞬間は何も考えられていないとか、そんな理由でたくさんの「普通」を自分自身が再生産している。
自分自身はなんとなく「普通」ではない人間なのだと感じて生きてきた。結婚とはどうやら面倒くさそうだ。大勢で群れて遊んでもさほど楽しくない。Twitterで何かが盛り上がっていても、むしろ引いてしまう時がある。おそらく大多数の人が考えないであろうことを考え、悩み、それを誰にも言わずに曖昧に微笑んでいる。人類を滅ぼしてみたらどうだろうかとか、現行の家族制度には欠陥がありすぎるのではないかとか、情動的共感は危険すぎるだとか、そんなことを口にしたら変人確定だ。一対一で、この人なら聞いてくれるな、というときは話すことがあって、それにとても救われているのだけれど、それ以外では絶対に話したくない。Twitterでも呟きたくない。いつフォロワーに、あるいは関係ない人に頓珍漢なリプを投げられるかと思うと絶対に嫌だ。
でも楽しそうにしている人たちを見ると、ああ私もそっち側の人間になりたかったな、と思ってしまう時がある。共感となんとなくの会話で繋がれる人間に。
そうやって、自分は「普通」にちくちくと痛めつけられている。それなのに自分自身が「普通」を再生産している。ということは、私は自分以上に他の「普通」が苦手な人を傷つけていることになるだろう。多様性が大事だ、と言われても、「多様性」だからこそ想定すべき、配慮するべきことは無限に増え続けて、情報処理が不可能になってバグってしまう。それは言い訳にすべきことではないが、しかし実際問題として小さな差別や小さな偏見はそんなところから出てきてしまっているのかもしれない。そして小さく少しずつ誰かにつけてしまった傷はその人の中では積み重なって、深い傷になっていっているのかもしれない。
いつもnoteには「結局どうしたらいいのか分かんないよう」と思ってしまうことばかり書いている。いつか解決策を思いついたらいいな、というのもあるし、これを読んだ誰かが考えてくれることを少し期待しているのもあるし、そうでなくても今私がこんなことを考えているということを残しておきたいからだ。
ひとまずの、今回の話に対する対策めいたものは、自分自身が普通とか偏見を助長しているひとりであることを自覚しておこう、ということと、もし可能な時があったら言われて嫌だったことは丁寧に穏やかにその理由を説明してみよう、ということだろうか。どちらも勇気が必要だ。
いい子にできたら、今度のクリスマスプレゼントは勇気をお願いしてみようかな。気が早いけど。