共感、認知、ゾンビと幽霊
学校でみんなで作業をしていた時、ひとりの女の子が泣いていた。どうしたんだろう、と思ったけれど、その子はひっそりと泣いていたから話しかけられるのは嫌だろうと思った。自分がそうだったから。人にされて嫌なことはしてはいけない、と習ったから、ここでは何もしないのが正しいのだと考えた。
しかしその様子を見ていた先生に怒られてしまった。気づいていたのなら声をかけなさい、と。その時に、自分が感じていることは周りと違うのかもしれないと気がついた。もしかしたらあの子も話しかけて慰めて欲しかったのかもしれない。それで私は「自分だったらこう思うから」という理由で深く考えずに人に接したりしないように心がけることにした。できているかは別だけれど。
今日もSNSでは誰かへの共感が溢れている。誰かが結婚したら喜び、誰かが亡くなったら悲しみ、大きな事件や事故に憤ったり不安を露わにしたりする。私は素直にそうすることができない。そうする人を羨ましく思い、同時にどこかでおかしいと思っている。そうする人たちはみんな、「自分はこう思うから、みんなもこう思っているに違いない」と考えているように見えるからだ。
「共感」というものには実は2種類あると考えられている。ひとつは「情動的共感」だ。事故の衝撃映像なんかを見て反射的に「痛い!」と思ったり、辛い場面で泣き崩れている人を見たら自分も辛くなったり。そういった、相手の感情を自分のもののように感じる共感のことだ。もう一つの共感は「認知的共感」である。相手がどのように考えて感じているのかを相手の視点に立って理解するものだ。前者は反射的なものに近く、感情そのものが変化するけれど、後者は頭で考えるという色が濃い。
SNSでの共感は「情動的共感」の方に近いと感じる。「こんなこと許せない!」「ほっこりした」「かわいそう」「見ているだけで涙が出てきた」といった感情的な言葉がたくさん使われ、そういった意見にさらに共感的なコメントやいいねが付いているからだ。一つの物事に対して、タイムラインが同じような感想や意見で埋まってしまうということもある。
私はその空気にあまり馴染めない。「自分と他の人の感じ方は違う」と自分に言い聞かせてきたせいだろうか。同じ意見ばかりの空間にどことなく気持ち悪さも感じてしまうのだ。自分が考えていることはみんなと違う、という気がしているのも理由の一つだと思う。そもそも大多数の人はわざわざこんなことを考えて文章にしたりしない。小難しいことなんて考えない。私にとっていろんなことを考えないのはつまらないことだから、やっぱり感情だけ、共感だけで繋がっている場は好きではない。しかしみんなが共通の話題で盛り上がって楽しそうにしていると、私もそんなこと忘れてそこへ加わりたい、と寂しくなってしまう。
それに、情動的共感でSNSを使っている人の気持ちも理解しようと考えてしまう。彼ら彼女らに反射的には共感できないけれど、認知的共感を使えば理解できるはずなのだ。悲しい時は慰めて欲しいよなとか、こういう事件に対しては怒る人が多いんだな、確かに酷いことだしな、などと考えて理解しようとする。おそらくある程度までは理解できていると思う。この場合にはこういう反応をする人が多数派のようだ、というふうには。だからなんとなく話を合わせようと思えばできる、はずだ(自分を客観的に見るのは難しすぎるので、全然できていないかもしれない)。
しかし「情動的共感」を使うのに長けた人たちは、私のような人に共感してはくれない。反射的に同じ感情になることができないからだ。感情が違うから、共感できない。それどころかまるで気持ち悪いと思うことさえあるかもしれない。
それがとても寂しい。私はあなたたちのことを考えているのに、どうして私のことは考えてくれないの、なんてお門違いの怒りすら抱きそうになる。別に彼ら彼女らは私に「分かってくれ」と頼んでなんていないのに。
私はまるでゾンビみたいだ。どうにかみんなと同じことを感じているふりをしたら、しばらくはバレずに仲間として過ごせるだろう。しかし気づかれてしまっては遅い。たまに面白いねと気に入ってくれる人もいるけれど、基本的には遠巻きにされてしまうはずだ。
遠巻きにされるのが怖くて、それ以前に同じことを感じているふりをし続けるのがしんどくて虚しくて、ゾンビだと気づかれる前にこっそり心の壁を作ってそこから離れてしまうこともある。物理的には存在しているけれど、本当の心は違うところにある。それでも一人ぼっちは寂しいから、離れたところからみんなを眺めている。私はゾンビから幽霊になる。
今からは認知的共感なんて捨てて、情動的共感だけで生きていこうか。ゾンビも幽霊もやめて人間になってみたい。一瞬そう考えて、やっぱりそんなことしたくないと思う。それは考えないのがつまらないから、というのもあるけれど、情動的共感だけでは危険だからというのもある。
情動的共感は感情的に共感できない人を排除しようという働きも持っている。SNSで炎上を見た時、こいつは悪だ、みんなもそう言っている、と感じてしまうと攻撃的なコメントを書いたりそんなコメントをシェアしてしまったりする。
あるいは本当はデマや誤りなのに、同情を誘うような投稿を見て反射的に共感し、つい間違いを含んだ投稿を拡散してしまったりもする。反射だから、そういった危険と隣り合わせなのだ。
私はゾンビなりに、あるいは幽霊なりに、誰にも傷ついて欲しくないと思っている。だから反射のせいで起こる危険を出来るだけ少なくしたい。そのためにも認知的共感を捨てるわけにはいかないのだ。考えるのをやめてしまってはいけないのだ。
どうやら厄介な生き物に生まれてしまったみたいだ。しかし楽しいことだってある。こんな文章を書いてみたりもできる。たまに話を聞いてくれる人がいたらとても嬉しい。だから人びとの幸せを祈りながら、どろどろと、あるいはふわふわと、みんなを遠くから眺めていたい。