メンヘラ、病み、アイデンティティ
講義の間の休み時間、近くの男子学生たちが恋愛話で盛り上がっているのが耳に入った。
「メンヘラって見たことないわ、ほんとにいるの?」
「案外近くにいる」
「返事しなかったらメンヘラの彼女からめっちゃLINE来たわ」
その言葉に思いのほか傷ついてしまった。「メンヘラ」という単語に反応してしまったのだと思う。
わたしは確かにメンヘラってやつだ。自傷跡も未遂の跡も残っていて、毎日たくさんのお薬を飲んで生きていて、月に二回は精神科に通い、病みツイートを垂れ流しては消し、電車の中や夜中ひとりで泣いている。
自分が自身をメンヘラだと表現することにあまり抵抗はない。むしろ「メンヘラ」という括りの中に自ら入ることで、他にも同じようなひとがいるんだとか、この状態に名前が付いているんだとか、そうやって安心できる。「あたしってメンヘラなの」って言いたい。そうしてわかって欲しい、と思う。
だから他のひとに言われても平気なんだと思っていた。でも想像以上に傷ついてしまった。どうしてだろう、と考えてみる。
まずは彼らの言葉の中にどこか「メンヘラ」を下に見ているような雰囲気を感じ取ってしまったことがある。自分には理解できない人間、めんどくさいやつ、そんなニュアンスで話していたように思えた。そうやって何気なく行われた切断処理に、ああやはりわたしはみんなとちがう生き物なのだと認識させられた気になった。
次はたぶん、「わたしはそうやってLINE送ったりしない。むしろ誰にも話せなくて困ってるくらいなのに。それに恋愛なんか興味ない」と思ったことだろう。彼らが言う「メンヘラ」は彼氏を困らせる彼女のことなのだと思う。わたしはそうではない(少なくとも今恋人はいないし)。だからそんな使い方しないでよ、と感じてしまった。そういうタイプのひとって昔はヤンデレって呼ばれてなかったっけ?
もちろんネット上などでそのような意味でメンヘラという言葉を使うひとがいるのも知っていたし、ヤンデレだって外部からのレッテル貼りなのだと思うのだけれど、わたしがある程度メンヘラにアイデンティティを感じているせいで、他者から発されるメンヘラという言葉に反応し、傷ついてしまう。
メンヘラ、という言葉自体が差別用語であり使用をやめよう、といった主張があることは知っているし、それに対する批評などもネット上で閲覧できたと思う。なのでわたしは、とりあえずわたしはこう感じたよ、ということを書きたい。
メンヘラ、と自称したいのは「わたしは生きづらいんです、にんげんに擬態してるだけだから上手くできなくても許して、できたら助けて」と伝えたいからである。その生きづらさのひとつは今抱えている精神疾患だけれど、他にもこれまでの人生経験とか性格とか今の状況とか色んなことが含まれている。だからこれは私見だけれど、自分がメンヘラだ、と思ったひとは診断の有無に関わらずその言葉を使っていいと思う。
しかし、自身をメンヘラだと思っていないひとには使ってほしくない。これはわがままかもしれない。自分が使いたい言葉を他人には使用禁止にしたいと思っているのだから。しかし、自分がメンヘラだと思っていないひとが発する「メンヘラ」は、あいつら自分達とは違ういきものだよね、という意味を持っているように思えるのだ。メンヘラって病みツイしてリスカして恋人を束縛して死ぬ死ぬ詐欺するよね、みたいなステレオタイプを抱いているように思えるのだ。
いちおう、メンヘラにだって色々あって、ステレオタイプ的な行為にも助けを求める意味があると思うし、そういうことをしないメンヘラもいると思う。だから彼らにメンヘラとひとまとめにされたことがとても傷ついた。
ひとまとめにされる、といえば精神疾患で苦しんでいるひとや様々な理由で生きづらさを感じでいるひとの中にもメンヘラと自称したくないひとが沢山いると思う。だからわたしが自分をメンヘラと呼んでいるとき、ほかの人を傷つけているかもしれない。
メンヘラを話題にしていた男の子たちだって、他にも悩みを抱えていたり、それぞれ違った考え方を持っているだろう。なのに切断処理されたように感じたから、といって「あいつらはこうだ」と決めつけるなら、同じことをしてしまうことになる。
みんな違う人間で、違うアイデンテティを持っていて、違うことを考えている。それをみんながほんの少し意識したら変わることもあるかもしれない。でもずっとそうしていたら、その新しいルールから溢れてしまうひとがでてくるかもしれない。そもそも人間には、各個人のアイデンテティを考慮する能力なんてないのかもしれない。
多様性、とひとことで言ってしまえるけれど、多様性とはこれほどに難しい。