人間の尊厳について
ピコ・デラ・ミランドラの著作と同名のタイトルにしてしまったけれど、本は読んだことがない。
他人とコミュニケーションを取る。そのとき、「本当の」わたしはいなくなっていて、何か違う意識がわたしの身体を動かしているような気分になる。
他人といるときには、それには気づかない。あるいは「何か」がそれを無視させる。わたしではあるけれど、わたしではない意識。
それが何なのか自分にも分かりかねていたし、他の人に聞いてみたとて分かるはずも、そもそもその感覚が伝わるはずもない。
それをしばらく考えていて、ふと、自分の尊厳、あるいは信念を捻じ曲げているからではないかと思った。
わたしはこうやってゆっくり考え事をするのが好きだ。アイデアを浮遊させたまま調べ物をして、またアイデアを広げてはくっつけて。そうやって、自分の世界に揺蕩うのが好きだ。
他の人と話す時も、そんなアイデアや考え同士を広げて、お互いに何か得るような時間にしたい。それは穏やかに、ゆっくりと流れる時間であって欲しい。じっくりとした議論であって欲しい。丁寧に、言葉のひとつひとつを吟味するような。
けれど実際に他人と接するわたしは、そんな人間ではない。どうしてか、と問われると、恐らく人に嫌われるのが怖いから、という答えになるだろう。沈黙していたら機嫌が悪いと思われるのではないか。言葉ひとつひとつについて話したら、揚げ足取りと思われるのではないか。
それに、たぶん心のどこかで見下されるのが怖いのだと思う。弱い自分を見られるのが。だから知っていることを話したくなってしまうし、自分が良くないと思っていることは隠すし嘘もつく。
本当はそんな人間になりたくない。けれど心のどこかにある不安が、恐怖が、わたしをわたしでない何かに変えて突き動かすのかもしれない。だからひとりのわたしは、他人といるときのわたしを、あんなの自分じゃないと嫌うのだろう。
そのことに気がつけば、あとは、少しずつその不安や恐怖と向き合うだけ。それだけ、の作業がいちばん難しいのだけれど。けれど少し、他人といても「自分」である時間、言葉、振る舞いを増やす。それは出来るようになるかもしれない。
そうしたらいつの日か、他の人といる自分でも好きになれるのかもしれない。