子どもを産むべきでないのか、ということ
「遺伝する障害を持つ人は子どもを産まないで欲しい」そういう意見を見る。わたしが見る限りは、その人自身が何らかの障害を抱えているか、親やきょうだいなど身近な家族に障害を持つ人、そういう人が発言していることが多い。
この意見そのものは、優生思想的で、批判されて然るべきというのも納得できる。しかし、発言している人自身が障害を持っているということには、ただ優生思想と批判し否定するだけでは済まない問題があると思う。
こういった人たちは、もちろん個人差があるけれど、その言葉を自分自身にも向けている。自分は子どもを産まない。産んではいけない。自分は生まれてこなければよかった。自分が優生思想に殺される存在だと理解している。
それなのに、それでも、障害を持つ人は子どもを産まないでほしい、と発言する意味は考えるべきではないかと思う。
わたし自身は、気持ちの上ではこの意見に賛成だ。もっと正確に言うと、「生まれてきたくなかった、死にたいと思ったことのある人は子どもを産まないで欲しい。そして全ての人間は子どもを産まないで欲しい」そう思う。
わたしは生まれてきたくなかったと思ったことも死にたいと思ったこともたくさんある。人生の中でそうやって苦しむ可能性があることを知っている。それなのに、子どもを産めば他人にそんな苦しいものを押し付けることになる。だから子どもを持たない。そう考えている。
それに、親に死にたいと言われた時、子どもはかなりショックだ。どうして、そんなに辛い世の中に自分を連れてきたのか?自分は苦しんで当然と思われているのか?そういうふうに感じる。
もちろん、この考えに人権的な問題があるのは分かる。ある特定の属性を持つ人に産むなというのは重大な人権侵害だ。全ての人類に産むなというのは、差別ではないが、実現不可能な世迷言に見えるのも分かる。
こうした考えに批判的な人の中には、単に優生思想だとだけ批判する人と、障害者自身が発言していることを鑑みて尚批判する人がいる。
前者の人には、いま障害を持つ人が苦しんでいる現実について考えてみてほしい、と思う。自己否定をしてでも、こんな苦しい社会に新しく人を増やすべきではない。そう言いたくなるくらい苦しい人生のこと。人権を大事にと言ってる人が、苦しんでいる自分を助けてはくれないという事実。福祉を充実させろと言っても、今苦しいことがなくなるような進展は全く見えないこと。そういうことについて考えてみてほしいと思う。
後者の人、つまり、障害を持つ人が優生思想的発言をしていると知った上で批判する人。そういう人も、全然進まない福祉のこと、今ある問題のこと、それらを我慢しろと言っているのに近いと思う。後者の人の意見には色々あるとは思うけれど、よく見るのは「お前以外の人間は障害があっても幸せに生きている人もいる。親から酷い仕打ちを受けても前向きに生きている人もいる。自他境界を持て」という意見だ。
確かに、正しい。障害を持っていても、考え方、援助希求のやり方、生き方を模索して楽しく生きる道は全くないわけではない。自分の親が虐待をしたり親の障害が原因でヤングケアラーになったとして、他の障害者が子どもにそうするとは限らない。確かにそうだ。
しかし、それは、いま苦しんでいる人に、お前は努力していないから人生に文句ばかり言っているのだ、とか、親にされたことは過去のことだから忘れろ、とか言っているのと同じではないだろうか。
精神疾患を持っていたり、虐待を受けた人は特に自他境界をしっかり保つということが難しい。それそのものが障害のひとつとも言えるかもしれない。そのことで苦しんでいる人にだからお前の人生は悪いのだと言うことが果たして「正しい」ことだろうか。足が悪くて歩けない人に、足が悪いのを言い訳にして歩かないのが悪いと言うのが正しいことだと言う人はいないのに。
障害を持っている人は子どもを産むべきでないとかやめた方がいいと言うのは、確かに人権侵害だったり自他境界の侵犯だったりするから倫理的ではないと、現在普及した倫理観ではそう言えるかもしれない。
けれど、そう言った背景を何となく分かりながらそれでも否定しかしないのも、倫理的ではないと思う。あなたは自他境界がちゃんとしてないんですね。「普通」の人はそんなこと言いませんよ、「倫理的」ですから。そう言うことの暴力性について、振り返ってみて欲しいと思う。
虐待の後遺症に悩んでいる。自身の障害によって苦しさを味わっている。そんな人たちに、多数派の倫理による正しさを突きつけることの是非について考えてみて欲しいと思う。
障害があったり虐待を受けた人だって子どもを持って良い。その人たちは子どもと自分を幸せにする努力をするから。その努力が失敗したら、助けられる社会を作ればいい。
分かる、そうだと思うし、そんな社会に少しでも貢献したいと思う。福祉や医療やその他のことを良くしたいと思う。でも、どうして苦しんでいるわたしがそんなことをしないといけないの?とか、わたしもう疲れたからそんなことできないよ。とか、理想論ばかりで実現するわけないよ。とか、そう思う自分だってここにいる。その言葉を口にしようとして、口を塞がれるのは間違っていると思う。社会に親に環境に恨み言を言う権利はあると思う。もう頑張りたくないし、もう苦しむ子どもを見たくないって言っても良いと思う。倫理的なことばかり言ってる奴ほど助けてくれないよって文句のひとつくらい言っても良いと思う。