にんげんが冷たいのは
他の人の事情なんて考えてる余裕ない。特に心の病気なんて目に見えないから分からない。
そう思うのは、ある意味普通、だろうか。これで何度目か分からないけれど、自傷や未遂のひとを救急で診たくないという意見を目にした。普通とまではいかなくとも、それなりに多い考えなのだろうと感じる。精神疾患について学んだことがあるであろう医療関係者までそんなことを口にする。なにが悪いの、みたいな感じで。それなら一般のひとはもっと理解できないと思う。死にたい気持ちとか、自分を傷つける衝動のこととか。
精神疾患の苦しみは目に見えない。時に迷惑をかけるし、怠けているようにも見える。知識としては病気だと分かっていても、目に見えないからつい軽く扱ってしまうのは、それなりに仕方ないと思う。けれど目の前でそれが起こると傷つく。身体的な病気や怪我で休む人には、みんな大丈夫?とかなにかしてあげようか、なんて声をかける。それを少し離れたところから見ているわたし。ああ、わたしも病気なのに、助けて欲しかったのに。でもそんなこと言えない言わない。身体的な問題だってとても苦しいし、助けが必要だし、周りの人の優しさだって真っ当なものだ。むしろ病気のせいでなにも助けられなくてごめんね。でもやっぱり、どうしてうつのわたしには同じこと言ってもらえないんだろうか。
見えづらい事情に対して、人々はときに冷たい。生活保護を受けている人は医療費を出来るだけ使うなと主張している人を見た。その人も医療関係者だった。もちろん、本人にも負担になるような過剰な医療は減らすべきだと思う。けれど三割負担の人が受ける医療も受けるなと言うのは差別ではないか。その人だって生活保護に至るまでに様々な事情がある。それに事情はともかくとして、生活保護を受けるのは権利だ。そこに医療だって含まれる。
当たり前のように、ごく普通に発される、精神疾患だとか生活保護だとか、そういった見えにくい困りごとを抱えている人に冷たい言葉が投げかけられる。優しいなと思っている人でもそう。勉強したはずの医療関係者でもそう。どうしてだろう。やっぱり、見えないことは考えるのが難しいから、なのかな。
それならわたしだって見逃していることはたくさんあるだろう。不用意な発言で誰かを傷つけてしまったことも何度もあるだろう。それに気がつきたい、今からでも。反省できるだけの心の余裕が欲しい。次はもうしないだけの能力も。
こう考えると、冷たい言葉を発する人にも事情があると思う、余裕のなさとかそのほか色々。どうしたらいいんだろう。
こういう問題は考えるほどぐるぐる話が巡って解決しないような気がしている。いっそにんげんがいなくなったら全部解決なのにな、と思う。でもそうはならないし、いまのところ。自分だけ悩んでも意味ないか。でも苦しいひとを放っておくの?これ以上冷たくはなりたくない。
いつか太陽も冷えてしまうし、にんげんが冷たいのは自然の摂理だろうか。