みんな同じで、みんな分かり合えない
苦しい。体が重くて、頭が痛くて、耐え難い眠気が襲ってきて、やる気が出なくて。怠けだろうか、うつの症状だろうか、それともその他の何かだろうか。
お盆だけれど、特に帰る実家もなければ会う友達もいない。自分で選んだことだ。けれどふと寂しい。これも自業自得か。
ひとはそれぞれ、違う苦しみを抱えているだろう。お盆に帰省するひとだって、ラッシュの人混み、親戚付き合い、否応なしに巻き込まれる古い価値観、色んなものに疲弊しているひともいるだろう。お盆なんか関係なく働いているひとだってたくさんいる。
病気だって、毎日高血圧の薬を飲むのが大変だというひとも、癌治療の副作用がしんどいひとも、脳梗塞のリハビリに苦労しているひとも、毎年やってくる花粉症に憂鬱になるひとも、ほんとうに幅広くいろんな苦しみを味わっているひとがいる。
わたしが苦しみを訴える。講義に出られないこと、やる気が出ないこと、人が怖いこと、ときどき寂しくてたまらないこと。Twitterに吐き出すことも、カウンセリングで話すことも、友人に話すこともある。友人に話すのはちょっとだけ、相手に負担にならないように誤魔化しながら、のつもりだけれど。
わたしのこれらの苦しみは、大抵受け止めてもらえない。いや、大変だね、と言ってもらえはするのだけれど、そのひと言のあとはその相手に別の話をされる。大したことじゃないと思われているのか、それとも面倒だと思われているのか。両方かな。
そうしてわたしの一番大きな苦しみは、「誰にも苦しみを受け止めてもらえないこと」になる。そしてその訴えすらも、大したことないと扱われる。「みんなそう思ってるんだよ。誰にも分かってもらえないって」
確かにそうなのかもしれない。やる気が出ないとか怠いとかも、誰にでもあるものだと思われるのも仕方ない。けれど、例えばがんで苦しんでいるひとが、この苦しみを誰かに分かって欲しいと訴えたときにも同じ言葉を返すのだろうか?
こんなところでほかの病気のひとやほかのことで苦しんでいるひとを引き合いに出すのは失礼だと分かっている。でももう失礼でも卑怯者でもいいから、本当に大変だね、苦しいんだねと言って欲しい。その言葉が喉から手が出るほど欲しい。
親が怖かったからまだ人間が怖い。親の親代わりをしていたから子ども時代があった人が羨ましい。うつ病になってから出来ないことが増えて、勉強に遊びに仕事にと頑張っている人が羨ましい。出来ないなりにもがいていることを認めて欲しい。もう心が折れそうなこと、ほとんど折れかけていることを誰かに分かって欲しい。もう頑張れって言わないで欲しい。苦しいと泣いている時にそうだねとそばにいて欲しい。
「みんな大変なんだよ」「人間なんて分かり合えないものだよ」と一蹴されたわたしの願い。わたしじゃない人が口にしたら違ったのかな。誰に言えば良かったのかな。何を間違えたんでしょう。たぶん、初めから。
人間なんて分かり合えないんだから、きみの悩みも苦しみも、分かろうなんて努力したくありません。さようなら。