世界とは断絶ばかりで出来ていてこちら側のどこでも切れます

 この前電車に乗っていると小学校高学年と思しき子どもたちの会話が聞こえてきた。
 「理科の〇〇(たぶん参考書)やった?」「見ただけ。時間ないもん」「だよね、でもあれ5周するもんらしいよ」
 きっと中学受験のために塾に通っていて、受験対策についての話だったのだろう。
 これを聞いて、最近自分が話した内容とそっくりだと思った。試験のたびに、みんなどんな対策をしているかとか、どのくらい勉強しているかといった情報を探り合う。そしてそれは中学受験をした、小学生の頃から今までずっと続いていることだと気がついた。

 中高生になれば期末試験の勉強はどうしようとか、勉強を教えてくれとか。大学受験が近くなればどんな参考書を使っているのか、模試の成績はどのくらいだったか、(当時の)センター試験は何点を目指すか。そんな話は日常的にされていた気がする。

 そんな日々も大学入学とともに終わりかと思いきや、今度は単位取得に、研究室選択にと再び成績で評価されることは続いていた。単位をとりやすい授業、良い成績を取るための方法、それらは大学受験の時よりチームプレーの色が濃くなった。わたしにとっては良くなかった。一人でコツコツ勉強する方が性に合っていたから。

 ともかく、結局成績の良し悪しが全てという世界は何も変わらなかった。もう成人している人間たちが、「〇〇さんめっちゃ成績良かったらしいよ」「〇〇くんは留年寸前らしい」なんて噂話をする。阿呆らしいと思った。そのほかに考えるべきことは山ほどあるんじゃないのか。

 就職偏差値、なる言葉を聞いた時は流石にどうかしていると思った。そして、疑うことなく「就職偏差値の高い」企業に内定を貰えば凄いと言われる状況も。

 そんなことのために勉強してきたつもりじゃなかった。いろんな勉強をしてきた人たちが多い場所に行けば、わたしの知らなかったようなことを知っていて、わたしが考えもしないようなことを考えている人がいると思っていた。でもそれは田舎者の勝手な夢想だった。現実はただ、数字と競争に慣れ切った人たちがいるだけだった。

 せめて研究が上手くいけばと思っていた。けれど研究の世界も、いや研究の世界だからこそ、数字と競争ばかりだった。研究費をいくら取ってきたか、論文を何本出したか、どれだけ良い雑誌に論文を載せたか、スタッフたちはそんなことばかり気にしていた。学生たちも、どれだけ実験をこなしてデータを取ったか、どれだけ論文を読んだか、それでしか評価されない世界だった。

 こんなことしたかったんじゃないのに。研究の内容はとても面白い。けれど、それに付随する「評価」が大嫌いだ。わたしは甘ちゃんなのだろう。でも、それだけじゃない世界があると、なければ作れると、そんな理想を抱くのはやっぱり愚かだろうか。

 せめてこんな状況に対して出来れば変えたいと思っていたり、そうでなくとも良くないかもしれないと考えている人に出会いたい。でも目に見える範囲を見渡しても、そんな人はいそうにない。それはたぶん、小学生時代から続く、数字と評価のレースに慣れ切ってしまっているからなのだ。

 研究をしている周りの人はみんな中学受験か高校受験で成功し、さらに大学受験でも成功した人たちだ。思春期を数字と競争の世界で過ごした人たち。ある意味その価値観を疑わないのは当然だと思う。

 薬学系に進んだ友達と、薬剤師の仕事はAIに代替されるんじゃないかという話をした。わたしは、窓口で最終的に患者さんと話す役割はしばらく人間がすることになると思うと主張した。患者さんにとっては説明を聞いたり疑問を訊ねたりしやすいだろうし(特に高齢の方には)、責任を取るのも人間にしかできないからだ。しかしその友達は人間なんかいらないと言っていた。薬の注意点なんてネットでも閲覧できるんだから添付文書を読めば十分だ、と。その言葉に驚いた。世の中に添付文書を読んで理解できる人が果たしてどのくらいいるだろう。そもそも添付文書の存在を知っている人はどのくらいなのか。KEGGなんて見たことない人ばかりだろう。

 世の中我々は多数派なんかじゃないのだ、と頑張って説明しようとしたけれど、その友達には届かなかった。添付文書を知らない人がいることがあまり理解出来ないようだった。いま思えば、たとえば「とんぷく」の意味が分からないまま大人になった、最近になって知った、というツイートをたまに見るから、それを例にしたら良かったかもしれない。わたしの母も常識はある方だと思うけれど、頓服薬の意味をあまり理解していなかったらしい(わたしの小児科のかかりつけ医と薬剤師は解熱剤に「熱が38.5度以上になったら」と書いてくれていたから、理解する必要もなかったのだろう)。

 そうやって、世界は断絶ばかりで出来ている。やれ偏差値だ、成績だ、研究費だ、そのレールにうっかり乗って仕舞えば降りるのは容易ではない。少なくともそのレールに今乗っていると自覚していなければ、そうでない人たちやそれに気づいている人たちとの相互理解が不可能になるほど遠ざかってしまう。

 小学生の会話から、そんなことを思った。あの頃から10年以上、何も変わっていないのはわたしだったのだと思い知らされた。大学に入って一度失望したはずだったのに、また慣らされてしまっている。

 本当はゆっくりと考えたい。ゆっくりと本を読んで、焦らず実験して、その結果について考えて。自分とは違う境遇の人に思いを巡らせて。わたしは人付き合いが苦手だけれど、そういう人たちに会ってみたいとも思う。わたしが大学に望んでいたものは、案外別のところにあるのかもしれない。

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