罪を赦されたい
生まれてきてしまったという罪を赦されたい。つまりそれは、自分という存在を全て認めて欲しいということだ。どんなに無能でも、どんなに怠惰でも、どんなに周りを傷つけても、最後には帰る場所があると思えたらどれほど良いだろう。そこは天国でも極楽でも、神の御許でも悪魔の宮殿でも、大いなる母の元でもどこでもよい。ただ赦され、帰る場所が欲しい。
そこは「無」なのかもしれない。何も無い場所、赦す罪さえ消えた場所こそが救いで、そこへ辿り着く方法が死しかないのであれば、やはり「死は救済」に一定の理があるように思えてしまう。
ところで私の母はそういったことを考えない、「普通の人」であると思う。自殺は良くない、周りが悲しむし、命を粗末にするなと言うタイプの。死を考えるほどの苦痛というものに一定の理解を示してはいるものの、しかし私が死ぬことは何としてでも止めたいと思っているようだ。
それと同様に、今まで仕事ばかりで面倒見られなかったから、今まで私が傷ついていたことに気づかなかったから、という理由で私に良くしてくれる。遠い距離を何度も往復して面倒を見てくれ、掃除にご飯にとなんでもしてくれる。私だっていちおう成人しているのに、である。
それをとても有難いと思う。しかし同時に、これは母のエゴなのだということが透けて見えてしまう。本人がどう思っているかは知らない。しかし、母の行為は母自身が自分を赦すための罪滅ぼしのように見える。多少は私の意見も聞いてくれるけれど、私の面倒を見るということ自体は既定路線となっていて、異論を差し挟む余地がないからだ。
確かに家事をしてくれると助かる。でも気を遣ってしまって疲れる。特に今の私は変化が苦手だから、母がいたりいなかったりするのに疲弊してしまう。それなりに健康な母に合わせて話をしたり出掛けたりするのもやっぱり苦しい。身体的にも疲れるし、精神的にもやっぱり私は健康じゃないんだ、普通じゃないんだって思い知らされるから。
でも私はそれを口に出して言うことができない。私も赦されたいからだ。私の存在を最も赦されたい相手、それはやはり母なのだ。生まれてきてごめんなさい、という気持ちから解放されたいのだ。だからありがとうと微笑んで、その罪滅ぼしを受け取ってしまう。
いい子をやめよう、と思いながらもいつまでもやめられない。見捨てられたくない。だからお酒も飲まないようにして、お医者さんやカウンセラーさんに褒められようとする。体調はまあまあです、と言って特に酷かったところは隠してしまったりする。自傷したいけど必死で我慢して、それで薬は特に変わらず、苦しいまま布団にくるまってぬいぐるみを抱きしめる。涙なんてもう出ない。どうしても赦されたいから、いつまでもいい子でいようとする。
きっと誰だって赦されたいという気持ちはどこかにあるのだろう。宗教を失った僕は誰にも赦されることがない。無だけが全てを焼き払って、罪さえ赦しさえ無効にしてくれるのだと、そんな信仰に縋ってしまう。
救い主が現れたらどんなにいいだろう。あるいは僕自身が救い主になりたい。みんなを赦してあげる。そしてみんなから、世界中の全てから赦されるのだ。そのためにはどんな苦痛を伴っても構わないと思ってしまいそうなくらいの甘美な妄想だ。僕は神様に、どうして僕が犠牲になるのですか、なんて言わないから、どうか僕を救い主にして欲しい。