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好きとか推しとか愛してるとか
何があってもきみのことが好きだよ。言われたら嬉しくないひとは滅多にいないんじゃないかと思う。わたしだって嬉しい。でもそこにほんの少しの淋しさを感じてしまった。
「好き」なんだって。わたしのどこが?顔とか、性格とか、センスとか、頭の良さとか、特技とか、仕草とか、色々あるだろう。なんとも言葉にし難い部分もあるだろう。そう、好きって言われたら嬉しい。
でも、わたしを好きだと言ってくれる人はそれなりにいるだろう。恋愛的な意味でもそれ以外でも。なぜかって、わたしは人を傷つけるのが好きではなくて、出来るだけ穏やかな気持ちになって欲しいから、そのために一生懸命だから。もちろんわたしのこと嫌いとか興味ないとか、そんなひとだってたくさんいるとは思うけれど、でも好きだよ、と言ってくれるひとはそれなりにいると思うのだ。
「好き」と言うとき、それは別に相手になにも与えようとは思っていないと感じる。好きって言うだけならタダだ。多少お世辞でも構わなくって。もちろん、好きだから何かしてあげたいと思うことはあるかもしれないけれど、でも好きってだけ、な場合の方が多くはないですか。
少なくとも何かを懸けるくらいのことをしてあげようという感情じゃない。ちょっとした優しさくらいは良いけど、お金が絡むと無理だし、人生変えられるなんてとんでもない。じゃあ遠くから見ています、という程度の「してあげたい」だ。
お金を払ったり応援しているとメッセージを発し続ける相手なら、「推し」になるのかもしれない。そこには「好き」よりは少し大きな感情、というより代償があるような気がする。何かを実際に与える、という行為。
それなら愛は?さらに、相手のことを考える、ということが加わる気がする。自分は相手のために何が出来るのか。出来るようになるためにはどうしたら良いのか。相手は何が好きで、何で困っていて、どう助けて欲しいのか。それらを考え続ける。そして行動する。それが間違っていたら謝って、そうやって、ひとを愛し続ける。
そこにはもはや損得なんてなくて、ただ相手のために、という想いがある。それが愛なんじゃないかと思う。あなたはあなたでいるだけで良くて、そしてわたしはあなたに沢山のことをしてあげたいのです。少なくとも、わたしが欲しい愛はそれだ、と思う。
わたしがわたしであると認めてくれること。わたしのために何かをしようと思って、行動してくれること。そんな人がいたらいいのにと思う。思ったあとに、それって自分でも出来るじゃん、と気がついた。わたしはわたしを愛することが出来るのだ。
好きとか、愛とか、形の見えない何かは曖昧だ。