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NISMOフェス:都平健二 メモリアル展示

①都平/木下組で育てたパルサーGTI-R

 NISMO festival 2024でパルサーGTI-Rのレストア車がお披露目された。日産名車再生クラブが、昨年からレストアを進めてきた1992年RACラリー参戦車が完成し、イベント展示された。同車はWRCの為に造られた生粋のラリーカーであり、都平健二も市販車からWRC仕様まで開発ドライバーとして携わった思い出の一台である。開発を共にしたのは木下隆之 氏。木下氏と聞けばトヨタの印象が思い浮かぶかもしれないが、かつてはNISMOドライバーであった経歴を持つ。都平健二とは1988年より1991年まで、都平/木下 組としてヂーゼル機器/ZEXELレーシングチームから、JTC、N1耐久、スパ24時間レースに参戦し親交は深い。レースのみならず、パルサーGTI-RのWRC開発も都平/木下 組が担って育てあげた。この為、木下 氏がパルサーGTI-Rのお披露目&テスト走行にドライバーとして招かれた。

①ドライバーはWRC開発ドライバー木下隆之 氏。Photo:Ikuhiko Endoh
②左:木下隆之  右:都平健二 レストア車のルーフには開発ドライバー二人のヘルメットが並んだ。
③左から、松村基宏 氏、木賀新一 氏、木下隆之 氏
④シルビア・180SXで馴染みのSR20DET型をグループA規定に準じて手を加え300PSを引き出した。なお、インタークーラーは上部。はたして、正解なのか失敗なのか。都平健二が振り返るには〈次に→〉
⑤都平健二:パルサーは速度がノルと、フロントが浮き上がるようなフィーリングで微妙。それゆえ、曲がらない。そして横置きインタークーラーでエンジンが熱を持ちやすい。車の完成度はともかく、嫌という程に走れば思い出が多い。Photo:Nissan
⑥WRC仕様テストは東北サファリパーク、丸和オートランド那須のダートコース等々。都平健二:「テストコースで衝突して車体を拉げたらどうするかな?車体片端を松の木にロープで縛り付ける。そしてもう片方にチェーンを掛けてブルドーザーで引っ張れば元通り。」人目に触れない僻地の特設テストコースにはフレーム修正機が無ければ十分なPITガレージもない。現場にあるものを臨機応変に、その場しのぎの作業で、また走りだす。
⑦GTI-Rの発売前テスト(1990.03.01)北海道でのスノーラリーテスト。公表前のためカモフラージュに包まれる。
⑧広大なテストコースの移動手段はU12ブルーバード。ワークススーツに長靴という組み合わせ。背丈以上の雪山に潜れば新車リーク情報にもならないだろう。写真は都平健二のアルバムより。

②ありがとう、とっぺいちゃん。メモリアル展示

 TSサニー棟PITでは、メモリアルコーナーが設けられた。都平健二はマイナーツーリングで通算41勝を記録し名声は高い。展示場所も相まりJCCA参戦ドライバーを含め“箱車レース”好きが多く訪れた。

①古参のレーシングファンのみならず、若年層にも都平健二を認知、「こんな人が日産にいたのか。」と記憶に留めて頂ける機会になっただろう。中には、目を瞑り拝む姿も見受けられ都平健二がワークスの一員として崇められたようだ。
②ありがとう、とっぺいちゃん。都平健二と言えばブルー3ラインが印象的。展示のジェットヘルは1970年代のハコスカGT-RやフェアレディZで着用したもの。日産のモータースポーツ史を辿れば隆盛を誇った時期である。
③参考:1971年日本グランプリ。ダットサン240Zのコックピットに収まる都平。71年、72年と日本グランプリGTクラスをフェアレディZで2連覇。(1971.05.03撮影)
④新生R32GT-R登場とスパ・フランコルシャン24時間レース参戦を契機にカラーリングを一新。また、スパ24時間レース参戦に際して音響機器メーカー「BOSE」がパーソナルスポンサーについた。展示のヘルメットはスパ24時間レースで着用したもの。
⑤参考:【24 Heures de Francorchamps】24時間の戦いを前に撮影。練習でオールージュにスロットル全開で飛び込みスピンした都平だが事ともせず、スタートドライバーを務める。(1990.07.22撮影)
⑥1990年仙台ハイランド300km優勝時のワークススーツ。都平/木下 組は前年までのJTCから新設シリーズとなるN1耐久に活動を移し、R32GT-RのデビューWINを成し遂げた。
⑦都平/木下 組ヂーゼル機器スカイライン。1990年仙台ハイランド300km優勝。NISMOチームを率いたのは日置和夫 氏。(1990.04.08撮影)
⑧都平健二:2011年NISMOフェスティバル
⑨ありがとう、都平健二さん。コーナーは真っすぐ ブレーキは踏まない。

③マイナーツーリングで都平健二を偲ぶ

マイナーツーリングレースでは、サニー乗りの有志により都平健二が偲ばれた。各車リアゲートにはTOHIRAステッカーが揃う。都平 氏もサニーに囲まれ見送られ喜んだことだろう。

①Go straight in the corner, Do not step on the brake.
都平健二が遺した言葉、コーナーは真っすぐ、ブレーキは踏まないという意味である。
②1986年Team Yellow Hat。イエローハットのレース活動はTSレースから始まったことは
余り知られていない。
③今回のメモリアルコーナーはNISMO木賀さん、川島さん、宇賀神さんのおかげで展示が叶いました。お力添えくださった皆様、お立ち寄り頂いた皆様に感謝申し上げます。都平さんも存分に喜んだことだろうと思います。これからもレーサー・都平健二を残してゆくべく発信して参りますので、どうぞ宜しくお願いいたします。 

レーシングドライバー都平健二のヒストリーはこちらからご覧くださいね。

④後書き 都平健二とは

茨城県水戸市出身のレーシングドライバー。1941年生まれの太平洋戦争体験者であり、学生生活後は上京し、本田技研工業の2輪ディーラーに勤めながら東京ナイトレーシングに加入しモータースポーツに親しんだ。その後、モトクロスで頭角を現し、鈴木誠一、久保三兄弟率いる名門『城北ライダース』に移籍。都平は1964年全日本モーターサイクル連盟チャンピオンに名を馳せ、翌年には日産自動車(大森ワークス)とドライバー契約し、ブルーバードSSで四輪デビュー。順調な成長で成績を修め1968年の全日本ツーリングカーⅡチャンピオン獲得を機に1969年に追浜ワークスに昇格。日本グランプリにて日産R382のエースNo.23を高橋国光のサポートで出走した。1970年代は主にスカイライン2000 GT-R、フェアレディ240Zで参戦。スカイライン2000 GT-R の50勝目を記録した富士300kmスピードレースでは豪雨の中で驚異的な速さで快走するも、リタイアに終わる伝説を残しながらGT-R通算50勝のうち4勝を支えた。フェアレディ240Zでは日本グランプリを二連覇、高橋/都平 組で鈴鹿1000km優勝。また、海外レースにも意欲的にトライし、アフリカ・キャラミ耐久やマカオGP、マレーシアGP、シンガポールGPなど多岐に渡る。1973年のオイルショックを理由とした日産ワークス活動休止に伴い、近藤レーシングガレージからプライベーター活動として富士グランチャンピオンレースに出場した。並行して当時の国内トップフォーミュラであるF2000、FJ1300に参戦。1970年代後半から1980年代にかけてマイナーツーリングに参戦し、サニーで通算41勝を記録。同時期のJSSレースではスカイライン・シルビアで通算32勝を記録し4度のシリーズチャンピオンに輝いた。プロトタイプカテゴリーではJSPCに長谷見昌弘とスカイラインターボCで参戦し、日産のグループC黎明期を支えた。その後は日産/マーチ85の開発ドライバーと並行して、ALPHA CUBICレーシングからポルシェ956をドライブした。同時期のツーリングカーレースではJTC開幕戦でClas1優勝し以後89年まで参戦しつつ、R32GT-RのJTC仕様の開発に携わった。1990年からは新レースとして本格化されたN1耐久シリーズの土台を整えるためNISMO/チームZEXEL(旧ヂーゼル機器)の意向で、JTCからN1に活動を移した。N1耐久開幕戦での都平/木下 組R32GT-RデビューWINを機に、ベルギー・スパ・フランコルシャン24時間レースに挑戦しクラス3位で新生スカイライン1-2-3フィニッシュの成果を残した。その後はNISMO/チームZEXELのN1耐久におけるノウハウが整ったことを境に、92年以降は都平自身のLIMITモータースポーツからBOSEスカイラインで参戦した。十勝24時間レースやR33GT-Rのデビューレースを旧型R32で制覇するなどして、1994年に念願のシリーズチャンピオンを獲得。同年代のJGTCには94年から96年までZEXEL・ワイズスポーツスカイラインで参戦した。そんな都平の名言のひとつが「コーナーは真っ直ぐ走る ブレーキは踏まない」引退後は2010年代前半までテクニカルショップリミットのオーナーとして長年のレース活動で培った技術を一般車へフィードバックした。なお、レジェンドレーシングドライバーズクラブ会員。CLUB S30の名誉会員。2024年逝去(83歳)