摂津国衆・塩川氏の誤解を解く 第31回の4「間部詮房(まなべあきふさ)の誤解を解く」
2つのウソ(?)がマコトを生んだ
なお、「東谷ズム版」でも上記タイトルでアップしました。
これは、3年前に " お蔵入り " していた原稿にちょっと手を加えてみたものです。
上図は、左手の越後国「瀬波郡絵図」における「村上要害 & 村上町」の景観が、あたかも塩川長満時代の「獅子山ノ城 & 山下町」(上と右模型)を彷彿させるように思えたので 、思いきって" 2ショット " に仕立てたものです。
「村上」と「山下」、一見無縁に思えるこの両者の共通項は、ただ上記の類似性ばかりではありません。
偶然ながら江戸時代中期、この「越後 村上」で亡くなった城主「間部詮房」は「塩川伯耆守」の末裔を公称していました。
もっとも、私自身はその「間部家系図」を信じておりません。要するに「ウソ」であろうと。
ただ、江戸時代に「塩川伯耆守」という名前は、小瀬甫庵の「信長記」を通じて
「 " 善政 " を信長に称賛された領主」
として知られていました。私は、その「善政云々」自体もまたおそらく甫庵一流の
「荒木村重の乱の " 功績 " をすり替えた " ウソ " 」
であろうと述べてきました。
目下「ウソ」が2つも並んでしまいました (…)
しかしながら「間部詮房」という人物の軌跡を辿ってみると、彼自身はは本当に「善政を志した政治家」ではあったと思うのです。
よって、以下は全くの推測ながら、「能役者」から抜擢された詮房は、世に出る際における「系図作成」(これは当時の必須アイテム)にあたって
「この地味ながら、善政で領民に慕われたという「信長記」の " 塩川伯耆守 " にあやかりたい」
ということで、系図業者と相談し、「摂津塩川家」に繋がる系図をあつらえさせたのではないか?と想像しております。
つまり「正徳の治」という「史実」は、「小瀬甫庵による虚構」と「塩川伯耆守の末裔という虚構」という2つのウソを、モチベーションに加えて産み出された、という解釈です。
2つのウソが、1つの大きなマコトを産んだ ? ? ?
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(2022.01.05 文責 : 中島康隆)