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【コラム】第九回 肉体と魂の乖離の要因

 みなさんは、「幽体離脱」をご存じだろうか。オカルトに興味のある方であれば、漠然としたイメージは持っていることかと思う。
 簡単に説明すると、幽体離脱とは、動物は肉体と精神的なものが二つで一つに重なり合っており、あることがきっかけとなって二つが離れてしまうこと、またその状態を指す。
 お笑いコンビ、ザ・たっちの二人が、双子であるという長所を活かして二人重なり寝そべり、片方が起き上がり「幽体離脱ー!」と叫ぶネタを見たことがある方も多いだろう。お二人の活躍によって、オカルトに興味のない方にとっても、「聞いたことはある」程度の現象として、認知度は高まったはずだ。
 死後の世界があるかどうかは今回は論じないが、あると仮定した場合、人間の身体は滅んだ後も、精神的な部分、つまり魂は残りあの世へ向かうとされているのがオカルトや宗教の定説だ。あの世へ向かう過程で、仏教では四九日の概念があったり、未練がある魂は霊体としてこの世に残るなど、さまざまな見解がある。
 では、仮に肉体と魂が分離するとして、「完全な死」以外にそのきっかけはあるのだろうか。それを考えるのが今回のテーマだ。

 何故、完全な死以外のきっかけを考えるに至ったのか、その経緯がある。数多の怪談を聴いたり、話を集めていると、事故で死にかけた人や睡眠中に幽体離脱を経験した人のエピソードに触れることは少なくない。その最中に、「死後の世界が見えた」「事故現場を見下ろす私がいた」「ベッドで寝ている自分から離れた」などの詳細を聞くことがある。そこでふと思った次第だ。
 これらの怪異は、肉体から魂が離れることを死と仮定すれば、「死に近いが死んでいない状態」である。だが、そう言えるのも、肉体に魂が戻ってこれたからという結果が伴っての理屈だ。そのまま死んでしまっては、体験談を語ることもできない。
 では、乖離現象が一種の誤作動だとすれば、そのきっかけは何なのか。私は、動物には二つのきっかけがあると考える。

 一つに、「肉体的な痛み」を伴う状態に晒されたときだ。例えば、交通事故や殺傷事件に巻き込まれたときを想像していただきたい。死にはしなかったが、身体に大きなダメージを負ったりしたとき、動物には必ず痛みが伴う。その痛みが限界に達して耐え切れなくなったとき、肉体から魂が離れ、死に向かうのではないだろうか。
 交通事故の例では、以前に書いたコラム(第四回 死後の世界での様相)でも紹介したビートたけし氏のエピソードが興味深い。かつてバイク事故を起こして転倒したときに、地面に倒れている自分を上空から見下ろす主観の景色が記憶に残っているという話だ。同じような怪異を、私もある女性から聴いたことがある。その方の場合は、衝突音が鳴ってからの記憶がなく、うっすらとした救急車内での記憶はあるのだという。加えて、やはりビートたけし氏と同じく、自分を見下ろす景色を見たらしい。
 殺傷事件においても、同様の経験をされた方はいるかもしれない。さすがに、殺されかけたという人に今まで出会ったことはない私だが、事故にせよ病気にせよ、身体に大きなダメージを負った状態で、何とか一命を取り留めた方が、「あの世らしき所で先に死んだ親父に追い返された」と回顧するエピソードはよく耳にする。
 耐え切れない痛みを感じると、動物はどうにかしてその状態を脱したいと思うはずだ。その反応が、肉体から一度離れてみるということなのではないだろうか。痛みによって、一旦は完全に外れかけた肉体と魂が、首の皮一枚繋がった状態で復帰できたときに、怪異として語られるのだろう。

 二つ目の要因として挙げるのは、「快楽や興奮」である。動物は、疲れ切った身体を、どこかのタイミングで休める為に睡眠を取る。睡眠はいろんな意味や効果があるが、布団に入りぐっすり眠ることは快楽でもある。疲れ切った身体で布団に潜り込んだときや、休日に昼頃まで微睡んでいるときの幸福感を得たことがない方はいないだろう。まさしく至福の瞬間だ。
 しかしながら、睡眠には心も身体も休める意味があるとしても、ときにズレが生じるのではないだろうか。身体は寝ていて脳は覚醒状態で起きている捻じれの現象を「金縛り」というが、医学的に証明可能な金縛りと、説明がつかないそれがあると私は考えている。単に身体が動かず意識だけははっきりしていた、で翌朝を迎えれば霊的な話ではないが、身体が動かず人影を見たとか、何かの声を聞いたとか、翌朝、怪異に遭遇した痕跡が部屋や自分の身体に残っていたなど、理解しがたいこともあるだろう。
 話を肉体と魂の乖離に戻す。私が考える金縛りの原因は上記の通りだが、いずれの場合にせよ、乖離現象は起きると考える。今回は金縛りそのものを深く考察はしないが、身体に快楽が与えられた場合に、それが絶頂に達したときに乖離するのではないだろうか。痛みと対極の感覚ではあるが、それぞれ極限の境地に至ったときという意味では似たシチュエーションだ。
 自分の身体から魂が離れる状態とは異なるが、快楽や興奮には怪異がつきものという意味で、いくつか検討すべきエピソードを紹介したい。
 怪談家の稲川淳二氏は、修学旅行のときなど、非日常の興奮しているときに怪異に遭遇しやすいと語っている。実際に、稲川氏の怪談にはそのような類の怪談はいくつかある。また、怪談でよくあるパターンとして、ラブホテルでの怪異が挙げられる。ホテルという密室で興奮状態に陥り、快楽が伴うような状況では、「シャワーが勝手に流れた」「テレビが勝手に点いた」「気配がする」「相手の顔が一瞬違って見えた」など、とにかく怪異が多い。
 上記のように、これらの体験談は肉体と魂の乖離ではなく、あくまで、本人主体で外側(現場)に起きた怪異であるため、今回のテーマには及ばない。しかし、快楽や興奮を得る環境に身を投じれば、怪異が起きることもあるという点では無視できないエピソードだ。

 痛みや快楽を感じているという状況は、動物にとってそれは言わば異常事態である。その事態を何とかして通常に戻そうとするか、そこから脱却するために精神的な部分で乖離や誤作動が起こる。その狭間で、魂が揺れ動いたときに、乖離を怪異として語ることができるのだろう。もちろん、睡眠は動物にとって三大欲求の一つであるが、就寝中に毎度怪異が起こるかといえば、そうではない。快楽や興奮は乖離現象の複合的要因の一つにすぎず、状況が揃った場合に起きやすいのではないだろうか。その他の要因とやらが何なのか、まだまだ考察の余地がありそうだ。


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