「おもしろい」を追い続けて
このマガジンも、ひとまず最後の更新になる。
……はずだったのだけれど、この文章を書いているうちに廃刊処理がなされてしまったらしい。今見たら投稿できなかった。
せっかく書いたのを放り出すのもアレなので、無料記事として置いておく。この文章は「喫茶うさたにのバックヤード」最後の記事として書かれました。
色々書き散らかしてきたけれど、最後の記事はやっぱり、全体を貫く柱みたいな内容で締められたらいいなと思う。
とすると――やっぱり、「おもしろさ」の話をしたい。
なんだかんだで、わたしは、「おもしろさ」に囚われている。虜になっている。成人してなおも「おもしろさ」を追い求め、自分で試行錯誤してしまうような人は少数派なのではないかと、最近ようやく疑問を抱くようになった。まだ信じられない。
でも、多くの人は、おもしろそうな方を向いて口を開け、自分にとって「おもしろい」ものが流れてくるのを待っているらしい。あるいは、「おもしろさ」について突き詰めて考える体力や気力がないのかもしれないけれど。
なんとなく、そんな気がしてきた。
ほんとうに社会がそうやって回っていて、「おもしろさ」の優先順位が低い人が多いのだとしたら、やっぱりわたしは異端なのだろう。
コンテンツを見ればそれがどうして「おもしろい」のか(あるいは「おもしろくない」のか)考え、自分だったらどのように改造して「おもしろく」するか検討し、時にはそんな思考の欠片を集めて作品として発表したりする。
……まあ、「できれば毎日更新するぞ!」とか言っておいて、結局挫折したりもしているんだけれど。これは厳密には「おもしろさ」の話ではないから、今は深堀りはしない。「おもしろさ」というより、「おもしろい何かを表現するための基礎体力トレーニング」に挫折したという話だ。
で。
「おもしろさ」というのは、結局、半分以上は「あたらしさ」で近似できるというのが、最近のわたしの考えだ。
子供の頃の世界が面白さにあふれているのは、つまり、人生経験が少なく、何もかもがあたらしいからだろう。
大人になるにしたがって、人は様々な経験を積み、予想が上手になっていく。驚かなくなっていく。「自分の勘が裏切られる」という体験が、レアになっていく。
日常生活を送っている限りは。
「おもしろさ」を追求している先輩の日常生活を観察すると破滅しているように見える場合が多いのは、つまりそういうことだろう。
日常生活は、基本的に平穏が求められる。これまでの経験から推測できないことにはなるべく手を出さない方がよい。職場と自宅とスーパーを往復し、適度に運動し、手慰みになにか趣味でもやって暮らしていくのがいいだろう。予測から外れた現象は確かに「おもしろい」のだけれど、日常生活においてはそれはアクシデントであり、体力や気力を無駄に消耗する。
でも。たぶん。
四六時中「あたらしさ」に触れている人の方が、他の人に「あたらしい」なにかを届けるときには、絶対に、強いだろう。
どれだけ「あたらしさ」に――「おもしろさ」に浸かって生きていくのかは、今後の宿題としたい。
文章だけじゃあなく、いろいろな形態で、届ける相手にとって「あたらしい」「おもしろい」ものを、作り続けられたらいいな。