日記
例によって帰宅の途はお腹が空いている。
とんでもねえ空腹感。
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HANABIの営業日誌をnoteのマガジンにまとめた。
noteって見栄えが良く見えるからやっぱり好きだ。
あらためて振り返ると紆余曲折していることがよくわかる。
半年経って完全に化けの皮が剥がれた。
はてさてどう転ぶか。
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ここ3年の自分のことを省みる。
前にさる人が言っていた「スキルというのは全くもって文脈依存的なもので、周りとの関係性などを抜きにして発揮されるものではない」といった話が思い出される。
「ものを書ける」といったスキルは、それを評価する読み手や、書かれたものを使って金を稼いできてくれる誰かといった、スキルないしそれによるアウトプットを介して関わってくれる人との関わりを抜きにして発揮されることはありえない。
ソロプレイヤーとして立っているように見える人たちも、別にその人のスキルそのものでそこに立っているわけではない。
さまざまな他者との関わりの中で根のように育ったコンテクストがあるから、その人は力を発揮できる。
「何を言うかより誰が言うかだ」という謂いは、まさしくこのコンテクストによってその人の力の発揮のされ方が大きく左右されることを示している。
卓越して見える人は、ただその能力において卓越しているのではない。
十分に育ててきたコンテクストがあるから、能力を遺憾なく発揮でき、その姿が「個として卓越している」ように見える(錯覚される)のだ。
自分はまさしくそのコンテクストを育てているところだと言えるし、2020年12月に定職に就くのをやめてからの約2年間は、網を成すためのか細い糸をごくごくわずかなとっかかりから、ほぼゼロから紡ぎ出す期間だったと言えそうに思う。
遠く隔たったそれぞれのきっかけから紡ぎ出された、か細くて貧弱な糸たち。
それらのうちいくらかは小さな網を成し、いくらかは何にも結びつかないままふよふよと虚空を漂いつづけた。
しかしそれらは、しばしば数年越しに、思いもかけない媒介物を介して結びつき、新たな網を成したりする。
小さな網と網が出会い、それまでより少し大きくて丈夫な網ができ……そんな繰り返しを経て、文脈は少しずつ育っていく。
「何かが蓄積された」というのはしばしば錯覚で、しかしそれでも案外役に立ってしまったりもする。
「俺、そういえばこんなこともやってたっけな」なんてこじつけから、思いもかけない自信が湧いて、それまで億劫なことに手が着いたりする。
それは別に、埋もれていた「スキル」が発掘されたから、などという話ではなくて、ただただ一定育った文脈が新たな自己認識と(根拠がないと言えばまるでない)自信をもたらしてくれたからにすぎない。
文脈から切り離して競わせれば何の市場価値も持ちそうにないものでも、文脈があるだけで誰かが喜んで手に取ったり使ってくれたりする。
それはある意味では空恐ろしいことでもあるが、人はだいたいのところそうやってお互いのニーズを満たし合いつつ生きているものだ、とも思う。
文脈の力と能力そのものを分けて考えられなくなるのは恐ろしいことだと思う。
しかし、後者にこだわるあまり前者をないがしろにすることも、あまり良い結果をもたらさないように思う。
歴史の、物語の、文脈の力を借りてこそ、我々は輝くことができる。
……これ、たぶん店にも言えることだから、ちゃんとやっていかなくてはな。
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少し調子が戻って、タスクを処理できるようになりつつある。
億劫さに勝てず手を着けられていないことも多い。
なるべく平静を保って、一つ一つしっかりやっていきたい。