いい場所をつくるために
なんか、なし崩し的にって感じだけど、次のステージに行かなきゃいけなくなってきた気がする。
他人の運命を変えてやろうなんてことを人が考えるのはおそらく大いなる傲慢で、何かが起こるとか何かが変わるとかってのは世界の気まぐれの結果として捉えるべきものではないでしょうか。
個人がやれることと言えばそのきっかけに参与することくらいで、複雑に束ねられた「原因」なるものの一部になるかならないかそれすらわからないところにアクションを投げ入れること、そしてその結果については祈りや不安を抱きこそすれ「絶対」を求めないこと、くらいのものでしかないような気がします。
私がやっているのもまさしくその程度のことであって、何か有益なものを提供してやろうとか、物事を良いほうに導いてやろうとか、そんなことをつい思ってしまうのは自分がそうしないとどこか落ち着きがないからでしかなくて、要するにただ自分の心が弱いからでしかないだろうと最近はよく思います。
それでも他人に何かをもたらしたいと願ってしまう時、人はいったいどのような身構えでいるべきなのでしょう。
もたらす、という段になったとき、自分の頭の働きがしばしば弱くなるのを感じます。
もたらせるものなんてそんなに多くないから。
そして、相手の視点に本当の意味で立つことなんてできないから。
あなたは何がほしいんだね、と言語的に、あるいは静的に理解できたとしても、日々時々刻々と移り変わる思考や感情や身体のモードについて、内在的?な形で、あるいは動的に、理解するといったことは、少なくとも今の私の手には大いに余る。
それを掴み取ること、そこに踏み出すことは、その人にしかできない、その人のタイミングでしかしようがない、し、その人がいつどんなきっかけを得て何を選びどこに踏み出すのかは、きっといつだって、少なくとも多くの場合、その人自身にもわからない。
気がついたらこんなところに居ました、という具合に、巨大なものに押し流されるようにして、人はそこにいることになる。多くの場合。
俺はそのことについて、自分自身に限って言っても、まだよくわかっていないのかな。
他人の人生に責任なんて負えない、それはどんな相手に対してだってそうだ。
最も近い人に対してだって、やれることと言えば、祈りながら積み重ねていくことくらいだ。
いわんや、関わる人が増えていき、自分の手でもたらせる限りのものを超えた広がりができていった時に、俺はいったい何をしたらいいのか。
世界に委ねること、握りつづけていたい手を離して命運に任せること、が、果たして自分のなすべきことのすべてなのか。
それでいいのか、それが自分のしたいことなのか。
自分の「したいこと」の由来は、果たしてどこにあるものなのか。
神になりてえつもりも、なれるだろうという驕りも、持っていないつもりだ。
そこにあるのはただの、失うことを恐れる不安な心だけでしょう。
不安の正体を見定めればいいのか。その正体さえわかれば、俺は楽になれるのか。
楽になれば、次のフェーズに行けるのか。
それすらよくわからないから、俺はどうしていいかわかりません。
考えることが絶えない人生は、なんだかんだ言って、どうしても嫌いじゃないです。