10/3

また体調がおかしい。風邪みがある。季節の変わり目は毎回こんなことをしているような気がする。首が詰まり、舌が腫れ、口が乾く。目を閉じているとぼんやりと鈍く響くように頭がかすかに痛む。毎回こんなことをしているような気がする。たまんねえぜ、もう勘弁してくれって感じだよな。

自分のキャパシティの小ささにこういうとき涙が出そうになる。嘘、涙なんてろくに流さない日々です。最後に泣いたのは6月の終わりから7月の頭にかけてひどい体調の崩し方をしたときだ。あの時は何が悲しいかもわからないままただ涙が溢れるに任せて大泣きをした。泣いている時は悲しいような気がした。しかし泣き終わると何が起こったかさっぱりといった感じで空虚な晴れやかさが残った……と記憶している。いずれにせよ泣いたりすることは日々の中で滅多にない。泣くことに心の奥底でブレーキを踏み続けているのか、あるいは泣くほど琴線に触れる物事に出会ってきていないだけのことか。考えてもよくわからない領域の話なので考えても仕方ないなと思うけれど、自分が日々泣いてばかりの人間だとしたら生活はどんなふうに変奏されることになるのだろう、ということには少し興味がある。そんなことより。

……そんなことより、と遮ってまで語りたい何かがあるわけでもないのだけれど。

ひ弱な自分を赦してただ身体を横たえさせて、それで本当にいいのかと迷う自分のようなものがいる。今日は日曜日みたいな日だった。明日は概ね夏休みの水曜日みたいな日になるだろう。何もない時間があり、そのあと塾通いみたいな仕事がある。ついついと水の中を泳ぐようにしてゆとりのある日々を過ごしていく。そんなふうに呑気にしている場合じゃないぞと叫ぶ自分もいる。

いろんな自分が自分という器の中にいる。うるさく不安を叫び続ける臆病者の自分がいる。すべてを放棄して自分自身にひたすら耳を澄ませていたいと願うとき、臆病者の自分は巧みに自身の要望を本音の中に滑り込ませる。偽物のできのいい答案用紙を、教師が束ねた答案用紙の山の中に紛れ込ませるように。自分の本音が、時に拮抗する自分の本音が、やかましく響き合って、欲しいものがわからなくなる。とりあえず欲しがったものを手にとって、日にかざしたり耳を当てたりしてみる。そうやって自分の本音をひたすら探している。

正しいものなんてないんだよな、ということを思い知る話を2つほど聞いて少し腑に落ちるという出来事があった。学びが決して終わらないのは、学ぶべきものがつねに形を変えうごめき続ける生き物だからだ。私たちは現実問題、情報の足りないなかで自分が賭ける選択肢を模索し続けている。いつだって完璧な選択はありえない。わからないことのほうが多い以上、きっと不安は残り続けるだろう。不安をギュッと抱きしめて、お前は決して悪くないのだと優しく背中をさすってやりつつ、それでも次の決断へと打って出てやらなくてはいけない。善く在ることは、そのセーフティネットになるかもな。しかし、そんなセーフティネットの有無にかかわらず、人はどうせ、ちょっとやそっとジャンプに失敗したからといって、すぐに死ぬわけではない。ましてやこの日本においては、というのは陳腐な物言いだが、実際のところそうなのだろう。死なないからと言って、怖いものは怖いし億劫なものは億劫だけれども、自分の足を重くしているのは、いつだってせいぜい未来に確信が持てない程度の話なんだろう。

未来はわからないんだよなぁ。みんな未来を予測しながら生きているのかなぁ。みんなどれくらい「未来」を意思決定の中に盛り込んで暮らしているんだろう。未来を考えるって、どれくらい大事なのかな。

こじつけみたいに「未来」を持ち出して今を正当化して、そうやって今この瞬間にエンジンをぶん回す、その程度でいいんじゃないか、と思ったりする。未来像だってただの道具に過ぎないんだって思えばね。あるいは神話をそんなふうに利用して人間は生きてきたのかもしれない。

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