9/26_今日の思ったとえらかった
なんだか心細くなっちまう夜だ。
すっごい雑に営業した夜だったと個人的に思ってるtonight。でも今になって、この文章というか前の一文を書きながら急に自分を許せたというか正当化できたというか。そう、何かが起こらなければ何も起こらないそういう場所としてあることは、きっと何かが起こったときにみんなが一歩踏み込んでそれに応じるための確かな土台みたいなものになるはずなんだ。何を言ってるかよくわからねーかもしれないが、とにかくつねに何かが起こっている必要なんかない、それどころか、何も起こっていないことこそ価値があるんだ、それは何かが起こったときに思わぬ形で真価を発揮するはずなんだ、といったことを、ふと思った。何も起こらないことにみんな慣れていこう。いや、俺がまずは慣れていかなくてはいけない。何もしない、ってそういうことじゃないか。俺はやっぱりまだまだ途上にいるんだな。
ついつい「お前のやってることは正しいよ、大丈夫だよ」という言葉をもらいたがっちまうんだよな。評価を受けたくなっちまう。そして今は心がそれを反射的に拒んでいる。評価されになんか行くなよ、お前がお前にとって正しいと思うことを粛々とやれよ、説明なんかいちいちしなくていいんだよ、なんて感じで。しかし、そこには、説明をすることによって自分が揺らいでしまう不安とか、逆に思いが固着して呪いになってしまうことへの不安とか、そういうものが隠れているような気がして。あるいは、饒舌に語ることへの不安、驕りを見て取られたり逆に過剰に持ち上げられたりすることへの不安が、あるような気がして。いっそ語ればよかったんじゃないか、そうしなかったことはただの弱さだったんじゃないか、という気もしてくる。しかし、それがただの間繋ぎのつもりでやろうとしたことだったのだとしたら、やはりそんなことをする必要はなかった、と言えるような気もしてくる。本当のところは今やわからない。俺は一体どうするのがよかったんだっけ。
そう、やっぱり自分がしたいこと、そうすべきと思うことをやっていくべきだ。俺は何を目指していくべきなんだ? ……それが自分の中に巣食っている他人の目みたいなものから導き出されるものだとしたら、そんなものは無視しておけばよい。俺自身が、腹の底にある俺の核が、そうすべきだと訴えることをするのがいいんだ。それで言うと、今日のお前の振る舞いは「正しかった」のか? よくわからない。自己評価なんかしなくていいのかな。答えは結局、後日世界が教えてくれる気もする。俺が信じたとおりに物事が運んだか、俺がそうあるべきと信じた世界がそのとき俺を取り巻いているか。結局それでしか答えを知ることはできないような気もする。もちろん、後追い的に筋道を論理的に描き出してみせることも、やろうと思えばできるのだろうけど。
今はそうしたいと思う段階にない、少なくともそうしたいと思わないから、そうしないでおくということでいいのかな、と。
お金ほしいな。とにかくお金ほしい。お金で困りたくねー、我慢したくねー。
新宿にいるときめちゃくちゃ生姜焼きを食べたい気持ちだったんだけど今はとんかつが食べたくなっている。
ものすごく自分の存在の肯定を、承認を、他人に求めたくなってしまう瞬間が時々あるよ。いや、恐ろしくたくさんあったんだな、とあらためて思う。ふわっと胃が浮くような瞬間がいっぱいあるんだよ。ねぇ、俺は今どう? 大丈夫かな?って尋ねたくなる。でもそんな自分が今はあまりにも嫌で、それをしまい込みすぎるあまり、とても自閉的に振る舞うことになった気がする。俺にとってそれは良しとできることだったのか? 俺はそうしていたかったのか、あるいは俺にとっての正しさはそうすることへと俺を導くようなものなのか? 俺はどうしていったらいいんだろう。俺はどうしていったらいいんだろう。
※すべては自問自答です。
さて本題だ……今日のえらかった。
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