全部コミュニケーションだから大事にしたいし大事にするよ、と思った
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すべてがコミュニケーションなんだ、と思うようになると、途端にすべてのやりとりが愛おしく思えてくるような気がしたのだけど、おそらくそれはそれで極端で、そんなことを思う必要はないんでしょう。
(そう自分に言ってあげないと、すべてのやりとりを愛おしく思わなきゃいけないような気がだんだん自分の中に起こってきてしまって、それが呪縛になって自分を締めつけて、うまくやれなかった自分を許せなくなる、といったことが起こってしまいそうで。そう、俺は愚かなので、すぐ自分含む誰かの言葉に囚われては、視野狭窄に陥って、強い感情に根ざした思考を手放せなくなる。)
-----以上、愚にもつかない前置き-----
さんざん文章の入りに迷った挙句がこれです。ひどいもんだ。
誰か文章の書き方教えてください。
素敵な文章を書けるようになりたいです。
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「〈良いコミュニケーション〉っていったい何だろう?」とは、当店のショップカードの表面に添えてあるフレーズです。
あまりにも傲慢かつ暴力的なことに、僕はその問いをお客さんに強いています。
そう、「〈良いコミュニケーション〉っていったい何なのか、ただ求めに来るんじゃなくお前らも各々考えろよ」と。
もはやそんな調子で問いかけたいつもりはないんですが、それでもこういうフレーズが、お客さんにお渡しするものの特によく見える位置を占めて置かれていることは、まぎれもない暴力性を孕むよな、とあらためて思ったりするのです。
この10月が始まってから、僕はずいぶんボロボロでした。
正確にはいつからだったか、あんまりちゃんと覚えてはいないのですが、なんであれ孤独と不安に苛まれる時間がこの1週間の大部分を占めていて、心身ともにカスみたいな状態だったとははっきり言えます。なんなら今日も一日の前半はゴミみたいに酷かったわけで。
言っちゃっていいですか? 言っちゃっていいかなぁ。
もうねぇ、あらゆる人間関係を利害の絡むものとしてみなすの、本当にしんどいんですよ。
「なに、そんなこと最初からせにゃええやん、バカでは?」とお思いでしょうが、俺は本当に下手くそだから、その辺のバランスもすぐ取れなくなってしまうんだ。
利害を離れたコミュニケーション、あるいは時間の共有と言ってもいいかもしれない、を少しやらなくなっただけで、全部が失敗できない人間関係みたいに見えてきてしまう、といったところがあるんですね。
ほんとしんどいよねぇ。愛されてないような気がしてきたり、やたら憎く思えたり、敵のように見えてきたり。
や、こういう言い方が、起こっていることの正確な表現になっている自信は、正直なところあんまり無いんですけど。
でも、なんかね。断片だけを取り上げてみれば、「とにかく寂しかった」「不安だった」「味方がいなく思えた」「助けを求めていた」「他方でやたら拒絶していた」「役に立とうとした」「裏切られた気になった」「失望した」みたいな感じで。
それらを繋げたら、まぁそれっぽいストーリーはできるじゃないですか。
つまり私は、人間と向き合う仕事をしていながら、いや仕事として/を通じて/の目で人間と向き合うことをしすぎた結果、人間を見失って、どうしようもない隘路に一人で入り込んでしまった、というわけなんですね。はぁ全然かっこよくない文章。
わかってますよ。
仕事として、とか言うけどさぁ、それはお前が仕事人としてただ未熟なだけなんじゃねえの、みたいな話ね。
全然そうだと思う。
俺、だから、Communicative Barの店長!とか言ってるけど、コミュニケーション、全くもって未熟で発展途上なんですよ。そんなの間違いなくそう。
え、じゃあ今まで、あなた「自分はコミュニケーションできる」って思ってたんですか?って。
思ってたよね。
そこらの人より全然、って。
思ってるよね。
何ならそのプライド全然へばりついて離れてくれない。
いいんだけどさ。
あるものはあるから、受け止めて受け入れて、それがある前提でやっていくだけなので。
でもまぁ、反省しちゃいましたねぇ。
現実問題、店を続けていこうと思ったら、そのためには何がしかをやっていかなくてはならない、という事情はある。
そして、店である以上は、何をやるにしても、そこには必ず人が絡む。
人が絡む時に、見誤っちゃいけないのは何だろう。
それはやっぱり、「相手が人間であるということだ」、とあらためて思う。
そしてここは、こと自分自身に関しては、最も見誤りやすいポイントでもある、とも思う。
決して掴めないなりにそこにあると信じられる、余裕がある時はその存在を感じられる、その人の全体像(全体性?)。
それは、利害を絡めたとき、危機に陥ったとき、脅威を感じたとき、(こと自分の場合は)比較的容易に見失われる。
相手の姿は、さまざまな仕方で、どこか局所がフィーチャーされる形で偏り、元の姿とは懸け離れた像へと歪み、そして脳内で膨れ上がる。
そして大体のところ、その醜く歪んだ像の醜さは、自分自身の切迫した悪感情に端を発する、いわばその影絵のようなものだということも言い添えておかなくてはならない。
人が人に向き合う時間、ただ安全にともに過ごす時間の尊さを、あらためて強く思う。
コミュニケーションなんて何だっていいんですよ、と言いたい。いったん言い切ってみたい。
HANABI、なまじ最初に堅苦しい「ガイドライン」なんて掲げちゃったもんだから、ルールを守って楽しく対話しよう!!みたいな場所だと、多分いまだに少なからぬ人に思われてんだけど、マジでそんなことないんだよ。
少なくとも、俺の中ではどんどんそんなことなくなっていってる。ブレブレなんかい、って感じだけど、どんどん変わってきてる。
全部コミュニケーションでいいんだよ。俺とあなたが共にそこにいる限りは。
そしてそこに必ずしも、論理や言葉や触れ合いはなくていい。
あなたが、一人でいる時とはまた少し違ったかたちで、「良い時間だったな」と感じられさえすれば。
それがあれば、そこに〈良いコミュニケーション〉があったとは、十分言えるんじゃないか、なんてことを、今日一日を振り返りながら思っています。
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