ジェル男「お前みたいなやつを落とすためだよ」

「あなたの第一座右の銘は何ですか?」
そう聞かれたとき、直後は「変な問いだな」と思った。
しかし、後になってふと振り返って、よくよく考えてみれば「座右の銘は一つに決めなくてはならない」と思い込んでいたのは自分のほうだったかもしれない、という疑念が湧いた。
座右の銘、聞かれるのがずっと嫌いなんだけど、それは「ただ一つ、絶対的なものを示せ」と迫られているようで、息苦しく思えるからだったのかもしれない。

そんなものはない、と、その質問をされるたびに反射的に思ってきた。
そして、くだらない質問をするやつめ、と、うまく答えが出せないストレスを相手方に転嫁してきた。
座右の銘、なんて、いかにも錆びついた旧い言葉という感じで、そういうものを大事にすることそのものが、時代錯誤なんじゃないかという気さえする。
……とまで言うのはどう考えても言い過ぎなんだけど、とにかく俺は、「あなたの座右の銘は何ですか?」という質問が苦手だった。

あえて言えば、「中庸」だろうか。
私は何においても、あいだを取りに行きすぎる。
一つの立場に肩入れしすぎないように、物事の片側だけに偏らないように。
しかし、それは自分の傾向であって、「大事にしていること」ではない。
中庸を重んじる、ということそれ自体に対してさえ、私の中には疑いがある。
良く言えば中庸、しかし悪く言えば曖昧模糊とした日和見主義、ただの意気地なしなのではないか、という自己嫌悪はつねにある。
良しとしていると胸を張っては言えないそれを「座右の銘」と高らかに宣言することは、俺にはどうもできないように思われる。

そもそも、だ。
座右の銘、なんて言うけれど、大方みんな、そんなものなのではないか。

別に心に固く決めた絶対的な信念があるわけではない。
ただ自分の傾向と世界との相互作用の連続に流されて、たまたまそうなっちまっただけの人生を、追認して正当化して、「ワタシは最初っからソウイウつもりで生きていたんですからネ!」としらを切ってみせるために、座右の銘なんていう尤もらしいものを持ち出す。
あなたが人生の中でたまたまめぐり会っただけのものを、さもあなた自身が自らの力で見つけ出した黄金律みたいに、「ハイ! ワタシの座右の銘は……」なんて鼻息荒く語り出す。
そこにはきっと自己欺瞞があり、生のあり方に関して盛大な勘違いがある。
「石の上にも三年」だぁ? そう思わないとあのカスみたいな苦難の時期をお前の中で正当化できないだけだろ。……

人は強いものよ そして儚いもの

Cocco「強く儚い者たち」

「人は脆いものよ」というフレーズが頭をよぎった。
そんなことを歌った歌があったっけな、と思って調べてみて、まず頭に浮かんだ歌には意外にもその歌詞はなくて、それが自分の捏造だったことに思い至る。
人は脆いもの、そして強いものーー。
そう、強いんだよな。しぶとくってしつこくって、容易には倒れてくれないんだよな。

自分に嘘をつくとき、人はしばしばそれが自分に対する嘘であることを忘れる。忘れるというか、気づきすらしない。
当たり前のように嘘をつき、それがさも最初から本音であったかのように自らの考えを塗りつぶすことができてしまう。
俺のあの長い長い苦難の季節は、今の素晴らしい人生に至るための準備期間だったんだ。……
ストーリーテリングにあたって余計な部分は巧みに削ぎ落とされ、無かったことにされる。それを自らの手で削ぎ落としたことにも気づかないうちに。

そうやって生きていけることは、確かに「強さ」なのかもしれない。
そうやって生きていけることが、確かに人の「強さ」なのかもしれない。

愛する人をかつてどうやって愛していたか、今となってはすっかり忘れてしまった。
でも別にそれでいいじゃーん、今も全然幸せなわけだしさ?……
そんなふうに思えているなんて、あの約束をした時の自分は一ミリでも予想できていただろうか?
今のこの気持ちを忘れたくない、なんて人は瞬間瞬間で強く願ったりするわけだけど、そう願ったことそれ自体もうまいこと忘れて、今日も明日も都合よく生きていけてしまう。

座右の銘ってのは、祈りの言葉なんでしょうか?
変わりゆく自分、どうしようもなく移ろってしまう自分に、それでも楔を打ち込んで、忘れたくないものを忘れまいとする、健気な祈りの小さなつぶやきなんでしょうか?

「意志あるところに道は開ける」……
そう思いたいからそう思う、そうありたいからそう願う、
それのいったい何がいけないんでしょうか?


     *


上野のアトレの中のスターバックスは、月曜の昼から人であふれている。
見渡していると、座右の銘なんてものを持って生きていそうな人間は、一人もいない……いや言い過ぎか、2人くらいしかいないように思える。
(座右の銘を持って生きていそうに思える人間の特徴は、髪の毛をジェルで固めていて、いかにも「仕事ができます、自信があります」といった面構えをしていることである。)
ごく少数を除けば、ほとんどの人たちは、自分が「好人物」であることを示す必要のある限られたシチュエーション以外では、「座右の銘」なんてものについて考えもしないだろう。
おおよそみんな、これから会う人のことや、目の前にいる人のことや、提出期限の近づいている大学の課題や、Twitterのバズツイの引用欄に、気を取られ思いを馳せている。
どう生きるか、に思いを馳せるのは、たまたま気分が乗った時、もしくは目の前の相手に「自分が人生を真面目に生きていること」を示さなくてはいけない時、くらいのものだろう。

愛を持って生きていきましょう。
たまたま人を愛せる境遇で良かったですね。
人に親切に生きていきましょう。
たまたま人に親切にできるゆとりがあってよかったですね。
継続は力です。
長続きする物事に出会えてよかったね。
沈黙は金です。
黙ってても物事が良くなるポジションにいられてよかったね。

すべてが冷笑の対象になる。
すべては生きるためのソリューションである。

生きていけばいいじゃないの、ダサくたって滑稽だって。
明日の座右の銘は何だろね。
今日と180°違うこと言ってる自分がそこにいたとしたって、それも生きるためだよねって、優しくしてあげたらいいじゃない。


しかし、面接とかで「座右の銘」とか聞いてくるおじさんって、あの質問でいったい何を聞きたいんだろうねぇ。

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