日記

久々にスマホから日記を書く。

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バイトに行ってきた。詳しいことは話さないほうがいい気がするので話さない(別に法にふれる仕事とかではない)。種類としては、わりと頭を使うタイプの仕事だ。頭のいい人の話をたくさん聞いた。なんだか刺激が多くて疲れてしまった。

勉強になったとか、たくさんの知識にふれられてよかったとか、そういうことはもう思わない。いや、実際のところ勉強になっているのかもしれない。何かが僕の中にうっすらと積み上がった、ということは多分言えるのだろう。けれども、そんなのはあらゆる物事において起こることだし、特段何かを特別視する必要はないのだと思う(もちろん、感動的な経験や学びにめぐりあう機会そのものというのはいくらでもある)。人はたえず勉強していると言えるし、逆にある物事が際立って何かをもたらしてくれるということはそうない。少なくとも、今日見聞したことのうち、ほとんどは明日には僕の脳みその網の目からこぼれ落ちて忘れ去られてしまうだろう。今日はそれくらい、僕にとっては手に余る、難解で身体的な実感からかけ離れた話をたくさん聞いた。

くれぐれも強調しておきたいのだけれど、これは愚痴ではない。むしろ僕は、嬉しく思ってさえいる。「いかにも勉強になりそうだし、実際聞く人のレベル次第では大いに勉強になりうること」と「その場で即、自分の血肉になること」との間に線を引いて、前者が後者にならずに終わった自分の現状を、冷静に受け止められているからだ。現時点の自分には敷居の高い話を、さも理解し学習したかのように考えて見栄を張ったりせず、わからないことだらけだったことを仕方ないものとして受け止め、受け入れられているからだ。ほんの1年前の自分は、こういう心境にはなれなかったんじゃないかと思う。わかることはわかるし、わからないことはわからない。自分が素直にそういう気持ちを持つようになったことを、僕はたいへん嬉しく思う。

と同時に、やっぱり頭のいい人はまぶしいな、とも思った。自分にはわからない言語で、自分にはわからないことをすらすらと語り合う人たち。そうか、大人を見上げる子どもの気持ちというのは、こんなだったかもしれない。大人に憧れる自分。僕はやっぱり、まだまだ子どもなのだろう。いろんな意味で。そう思っていたい気もする。

勉強したいな、とはあまり思わない。それは別に、新しいことを知りたくないとか、いっさい頑張りたくないとか、そういうことではない。あの、10代の頃にしていたみたいな、熱に浮かされたような勉強の仕方はもうしたくない、というだけの話だ。むしろ、新しいことは知る楽しみはたくさん味わいたい。頑張ることが快さにつながるなら、頑張りたい。それらを勉強と呼んでもいいのなら、僕は勉強したいのだと言えるのかもしれない。勉強をする人間として生きていたい。生きることが勉強であるような人間でありたい。ある意味においてはそう思っている。ある意味においては、もう勉強なんかしたくないけれど。

結局のところは、目の前のことを一つ一つやるしかないんだろうな、と思う。目の前のことをやるとは、別に誰かや何かの奴隷に成り下がるという話じゃない(前にもこんなことを言った気がする)。そのときそのとき向き合っているものを味わい、そこから何かを感じ、そして自分について思いを馳せる。その中で、好きなものや嫌いなもの、許せるものや許せないものが見えてくる。更新された自分が、また新しい何かに出会う。その繰り返しで、たぶん僕は少しずつ、僕が僕らしくいられる方向に進んでいく。

もちろん、僕らしくあることが、正しさや豊かさに必ずしもつながるとは限らない。多くの人から白い目を剥かれたり、ろくに金にならない生き方のために粗末な暮らしを余儀なくされたり、そういう結果に陥るかもしれない。でもたぶん、そうだとしても、僕は僕らしくいたほうがいいのだ。僕なりの豊かさを培い、僕のことをわかってくれる人と手を携えながら、しょぼかろうと輝かしかろうと生きていく。そういうふうにいたほうが、僕は気持ちよく死んでいけるだろうし、後悔や未練も少なくて済むように思う。

見栄を張らない。自然体でいる。わからないことはわからないし、わかろうと思えばかろうじてわかるレベルのことからしか世界は広がっていかない。だから僕は、なるべく力を抜いて立っているようにする。わかることもわからないということも資源として役立てながら、力を抜いて進んでいく。

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