日記

日記だぞーオラオラ

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結論みたいなものを目指して書く必要はないんだぞ

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10年以上前、ポケモンをめちゃくちゃ一生懸命やっていた。初めて本格的にネット対戦ができるようになった頃で、僕もそれなりにせっせとポケモンを育て、wiiの『ポケモンバトルレボリューション』で夜な夜なネットの民と対戦を繰り広げ、ときには録画した動画をニコニコ動画にアップし、といったことを一生懸命やっていた。

最初から「ハマろう」と思ってやりはじめたわけじゃないんだよな。気がついたらハマっていたし、やることも広がっていたんだ。最初から動画を上げようと思っていたわけでもないし、最初からネットで対戦しようと思っていたわけじゃないし、最初から努力値やら個体値やらパーティー編成やらなにやらにこだわっていたわけじゃない。気がついたらそうなっていった。気がついたら次の何かに手が伸びていた。そうやって深まっていった。深まったのは結果であって、ゴールがそこにあったわけじゃなかった。

あのとき育てたポケモンも、ネットで出会った人たちも、みんな僕の世界から消えてしまった。すべては過去の中だ。びっくりするくらい何もかもが消え去っていった。すべては思い出の中にある(つるんでいた人たちは今もどこかで生きているだろうし、動画も掘り返せば見つけられるんだけど。そういうことじゃなくて)。

(そういうこと、が大事だったりするのかもしれないけどね。そういう見方も選びようがあるのかもしれないけどね。)

何もかもがやがては消え去る。資産も、人間関係も、スキルも、知識も。最終的にはなくなってしまう。タイミングは物事によってそれぞれかもしれないけれど、終わることは決まっている。だって人は死ぬじゃん。死ぬからね。死んだら全部なくなって、来世に持ち越せるとかなんとかってことは期待できない。

(そういうことを期待する世界観を持ち合わせていないからってだけかもしれないけどさ。)

だから何もかもが虚しい、だから何も一生懸命やる価値がない、って、そういう話じゃないんだけど。でも、どこかでそれに類することは思っているよな。自分の世界観にしたがって、時間や物事や他者にまつわる認識に沿って。仕分けして、価値のあるものとそうでないものに序列をつけている。序列は根拠のないものだけれど。個人的なものだけれど。僕がそういう生き方をしてきたからそういうふうになっている、という話にすぎないのだけれど。だから別の道を選ぶことだって全然できるはずなのだけれど。

ポケモンの新作、今さらやるかぁ?

単にめんどくさがっているだけかもしれないよね。なんだってそうだ。やれるけどやっていないこと、なんでやっていないかって言ったら、結局めんどくさいからなんだよな。費用対効果の見積もり。リスクやコストとリターンの天秤。それも、あくまで主観に基づく。何もかもが「正確」ではなくて、それはある種の偏ったロジックに則っている。

ご飯食べたくなってきたな、午前中に死ぬほど食べたのにちゃんとお腹空いてきた。すごいね。

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ものを言う必要なんてないんだと思っている。誰もがものを言う必要なんて。向き不向きがある。向いている人は考えるより前に何かを言っているよ。上手に世界に思想を押しつけている。上手じゃない人もいるけど、まぁ下手な人だってそれをまったくやれない人よりは上手って考えていいだろう。将棋のルールを1つも知らない人に比べれば、駒の動かし方だけはわかりますって人のほうが「将棋が上手だ」と言っていいように。

(言っていいのかな?)

(こういうところで迷うのが「向いてなさ」ですよね笑)

(だいたいこれだって、この文章だって、もの言ってるじゃないですか。言えない言えないって言いながら、書いてるじゃないですか。世界に表明する気でいるじゃないですか。言えてないこと、なくないですか? それがあなたの言い方だって話にすぎないんじゃないですか?)

そうとも言えるかもしれない。

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要するに、スタイルの問題なわけですよ。スタイルの問題、方向性の問題、性質の問題。わたしは「言えないよぉ」と思いながら言っている。それがわたしのスタイルなのだ。言い方なのだ。「言ってやるぞ」と思いながら言うことはできない。それはわたしのスタイルじゃないから。そうすることは自分の実存になじまないから。少なくとも、今この瞬間においては。10年後どうなってるかとかって話はわかんないですよ。でも今この瞬間そうだよねって話は否定できない、しようがない。否定できないから、それを受け止めたうえで、どうしようとかどうなっていくだろうとか曖昧に考えるともなく考えて、宙ぶらりん。宙ぶらりんってのはつまり、今の在り方で在りつづけることと、その外側にはみ出すことと、どちらに転ぶかわからない境界線の上で、あてもなくさまようこと。賭けるともなく賭けること。主体性とか自由意志とか呼ばれるものがそこで働くなら、働けばいいし、そういうものじゃないものに導かれるなら、それでもいい。(その区別について詳しいことは知りません。)賭けること。生きることはすなわち賭けることかもしれない。生きつづけていくということは賭けが続いていくということかもしれない。

アーティストについて、思うことがあった。

あるアーティストを見ていて、思うことがあった。彼はきっと定義を拒んでいるのだろう、といったことだ。たぶん「らしさ」みたいなものを深いところで、主義とかそういうものよりもっと深いところで、嫌っているんじゃないかと。やっていく、作品を出していく、活動していく。そこで活動に、作品に、名前がつく。ラベルが付される。ジャンル分け。カテゴライズ。ラッピング。抽象化。そういうことがなされると、彼はそれを即座に裏切る。裏切りたいんじゃないだろうか、彼は、と思った。裏切りつづけないと気がすまないんじゃないだろうかと。そうだよな、「らしさ」とかいうふざけたものに押し込められたくないよな、押し込められることを甘受することで叶う何かもあるかもしれないけどそれでずっと生きつづけるのは嫌だよな、だってそれってわかりきった未来=現在を死ぬまで生きていくってことだもんな、そんなのってつらすぎるよな。地獄だよ、地獄。今日とまったく同じ明日が続くとわかっていたら人生なんて生きてらんないよ。そういう生き方をするにはちょっといろんなものが足りてないよ、現代日本。少なくとも僕の知っている限りにおいては。そう、だから、裏切りつづけながら、少しずつずれながら、前に進んでいきたいんだろうな、ということを、勝手な憶測ながら、思ったりしたのだ。

そしてその気持ちはちょっとだけわかる気がする。今の僕の在り方からすると。

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今日はわりと、人に読まれることをわかっていながら、自分の思っていることをそれなりに抵抗なくなぞれている気がしますねぇ。いいですね、気持ちいいですね。でもこれはたまたまそういう日だからということなんですかね。あるいはたまたまそういう物事について書いているからということなんですかね。そういうことを思っているからということなんですかね。なんにせよ偶然がもたらしている現象かなという気がします。明日は明日でまた何か違うことが起こるんでしょうね。そもそも書きすらしないかもしれない。

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その日その日の状況に合わせて自分の置き場所を上手にチューニングしてあげられたらいいですねぇ。無理やり再現性を持たせようとかしないで、その日その日の自分の声をきちんと拾ってあげる生き方を、やっていきたいですねぇ。とりあえず、当分のところは。

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