日記


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晴れた日は、ときどき途方に暮れてしまう。気力と体力に満ち満ちていて、なんでもできそうな日ほど、そうだ。なんでもできそうだからこそ、強い孤独に襲われる。どこに行ったらいいかわからなくなる。こんなに元気なのに、こんなにいい天気なのに、どこにも行けない。行きたい場所が、思い浮かばない。そんなふうにして、何もかもが嫌になって、生きていることがつらくなる。こんなに元気なのに、こんなにいい天気なのに、何もできないし、何をしていいかわからない。

ありあまった体力を、合理的に消費してしまうことはできる。走ればいい。筋トレをすればいい。体からエネルギーを奪い去ってしまうこと。なわとびを跳んだっていいかもしれない。要するに、エネルギーがありあまっているのが問題なのだ。余分な体力がなくなれば、余計なことを考えることもなくなる。なんでもできる気がするのに何もできないのがつらいなら、なんでもできそうな気分自体を、殺してしまいさえすればいい。

子どもの頃は、そんなふうにして、合理的に生命力を処理していただろうか。

今日は、散歩に出た。晴れた日に鬱屈とした気持ちになるのは久しぶりだな、と思った。晴れていても寒ければ、うとうとしながら家に引きこもっていられる。外に出る気だってそう起こらない。家にいることに対して、気が咎めたりしない。欲求不満を感じることもない。でも、晴れているうえに暖かいとなれば話は別だ。外にいるほうがよほど気持ちいい、と思ってしまったら、外に出ずにはいられない。たとえできることがまるで思いつかないとしても。

家を出て、隣駅まで歩く。20分強の道のりだ。歩いて、歩いて、街並みを眺める。駅の近くの繁華街まで行き着いて、それからなおも歩きつづける。頭はずっと動いている。考え事をしている。何かを探し、何かを欲している。と同時に、何かを探し、何かを欲している自分を、懸命に上から眺めようとする自分もいる。この気持ちをどうしたらいい、どうしたらいいんだ。自分が閉じ込められている世界の外側についてのビジョンの断片的が、浮かんでは消えていく。空がだんだん夕方の色に染まっていく。

閉じ込められている。僕はこの世界に、この環境に、閉じ込められている。思考も欲望も行動の選択肢も、自分を取り囲むものに制約されている。選択肢がないのは、僕の今いるところが、そういう場所だからだ。居酒屋。ラーメン屋。チェーンのファミレス。ファストフード店。コンビニエンスストア。焼肉屋。スナック。キャバクラ。ソープランド。ゲームセンター。若者。高校生。OL。サラリーマン。おっさん。おばさん。じいさん。ばあさん。他者。一瞬すれ違い、顔も名前も知らないまま消えていく他者。ターミナル駅。パチンコ屋。オフィスビル。警備員。街頭スピーカーから流れるヒットソング。

拒絶されている、とは思わない。街中で自分を閉ざして歩くのは、当たり前のことだ。僕だって、多少はそうしているはずだ。閉ざすことができず、つねに開きっぱなしだったら、きっとしんどいに違いない。ちょっと外に出かけて、家に帰るだけでも大仕事だ。だから僕らは、多少なりとも自分を閉ざして街を歩く。そして、ふとしたすれ違いの中に、偶然の出会いといったものは起こらない。見知った顔とすれ違うこともない。このだだっ広い街に、僕を知っている人が、僕の知っている人が、いったい何人いるのだろう。とりうる選択肢は圧倒的に限定されている。おそらく万に一つ、十万に一つ。いや、百万、一億に一つかもしれない。

狭い世界に閉じて生きることが幸せだとまでは思わない。逃げ出せること、その気になればいつでも別の場所へと逃れられることは、それもまた一つの幸福だからだ。クラスメイト、いつも変わりばえしない顔ぶれ。冗談じゃない。あんな場所にはもう戻りたくない。流れのない場所では、何かが澱み、腐っていく。澱み、腐るものに、いつなんどき自分が選ばれるかはわからない。怯えながら、恐れながら過ごすのはごめんだ。支配されるのも、膠着したルールにとらわれるのも、この人生においてはもうごめんこうむりたい。

わがままに生きたい。わがままに生きるとは、とりたいものを、どれをとっても自分好みの選択肢の中からいつでも選べることだ。あるいは、その選択肢群を組み替え、ブラッシュアップしていけることだ。自分にとって最善の選択肢たちで、つねに自分を取り囲んでいる状態。それは、時とともに移ろうだろう。世界が変わり、自分が変わっていくなかで、最善の内容も変わってくる。そのアップデートを、怠ることなく行なっていけること。それが生きる力、生きる強さではないかという気がする。晴れた日に、何もできずに立ち尽くし、孤独に打ちのめされ、生きているのさえ嫌になっているようでは、まだまだ弱い。

生きることは、環境との相互作用だ。買い物は最寄りのスーパーですることになるし、うまいラーメン屋が近くにあればそれなりの頻度で通い詰めることになる。行動も思考も、環境に制約され、方向づけられている。途方に暮れたとき、僕の頭にまず浮かぶのは、いつも目にしている風景だ。そしてそこに何もなければこそ、絶望することになる。ある状態の自分に対して、適切なものをもたらさない環境。それこそがストレスを生み、僕らを絶望へと叩き落とす。

現実に即して考えることは大切だけれど、そればかりではいけない。自分を取り巻く現実に囚われているかぎり、その現実をベースとしたロジックでしか物を考えることができない。現実に倦むなら、現実の裂け目に目を凝らし、その外側の可能性について思いをめぐらさなくてはいけない。近所中が顔見知りの世界だってありうる。ソーシャルレジデンスで、友達や知り合いと暮らす日々もありうる。キャベツ畑の主になったっていい。なんだっていい、とにかく今ある世界の外側に思いを致すことだ。囚われながらそれをやることは、なかなか簡単ではないかもしれないけれど。

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とりあえず、今日はたくさん歩いて疲れたし、文章を書いて頭も使ったので、いったんゲームします。

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