㊽ 第4章「行け行け東映・積極経営推進」
第4節「東映巨匠映画 今井正と内田吐夢」
大日本映画党を以て任ずるマキノ光雄率いる東映は、娯楽映画ばかりではなく、戦前から活躍する巨匠監督の映画も手がけました。
マキノ光雄が招いた、左翼の今井正と満映に参加し抑留生活を経て帰国した内田吐夢。そして、マキノの志を受け継ぎ、東映の企画本部長になった坪井与時代に参加した田坂具隆、伊藤大輔。今節は3回に分けて東映映画の評価を高めた4人の巨匠とその作品を紹介します。
今井正(いまい ただし)
1934年、左翼活動で検挙され東京帝国大学文学部美術史科を中退した今井正は翌1935年4月、京都のJ.O.スタヂオに入社。1939年、J.O.が合併して名前が変わった東宝京都撮影所製作『沼津兵学校』黒川弥太郎主演で監督デビューします。
1949年、東京の東宝撮影所で監督した石坂洋次郎原作『青い山脈』原節子主演が主題歌ともども国民的大ヒットを記録。
東宝を退社しフリーの立場になった今井は、翌1950年、戦争で引き裂かれた恋愛の悲劇を描いた、東宝『また逢う日まで』岡田英次主演を監督すると、ガラス越しのキスシーンが話題を呼び、前年に続いて大ヒットしました。この映画は作品評価も高く、キネマ旬報ベスト・テン第1位を始め各種映画賞を受賞、名監督に名を連ねます。
しかし、レッド・パージで大手映画会社から締め出された今井は、1951年、山本薩夫監督らが立ち上げた独立プロ新星映画社で『どっこい生きてる』を監督した後、大日本映画党を掲げるマキノ光雄に招かれて1953年正月公開『ひめゆりの塔』津島恵子主演を東映東京撮影所で監督しました。
この映画は1952年度邦画配収1位の大ヒットを記録し、東映の資金繰りに大きく貢献、その後の飛躍のきっかけとなり、また、キネ旬第7位に選出され、今井の評価も増々高まります。
1956年には、山村聰や森雅之などが設立した現代ぷろだくしょんにて草薙幸二郎主演『真昼の暗黒』を演出。冤罪事件を扱ったこの作品には様々な圧力がかかり、自主興行を余儀なくされましたが大きな反響を呼び、作品の評価も高くキネ旬第1位に輝きます。
その後、マキノの依頼で1957年3月公開、今井にとっての初カラー作品『米』を東映東京撮影所にて監督。この作品も1956年度邦画配収第8位となるヒットを飛ばすとともにキネ旬第1位に選ばれました。
続けて監督した、その年10月に公開された江原真二郎主演『純愛物語』は、第8回ベルリン国際映画祭銀熊賞 (監督賞)を獲得し、キネ旬第2位を受賞します。
今井はこの年のキネ旬1位と2位を独占する快挙を成し遂げ、名実ともに日本を代表する監督となり、東映現代劇の評価を高めました。
さらに、翌1958年には、現代ぷろだくしょんで三國連太郎主演『夜の鼓』、1959年、大東映画『キクとイサム』を監督、それぞれキネ旬第6位と第1位に輝きます。
1960年、再び東映東撮で有馬稲子主演『白い崖』を監督した後、翌1961年、江原が演じる在日韓国人漁師を通じて日韓問題を描いた『あれが港の灯だ』でキネ旬第7位を獲得しました。
1962年には、自ら設立したM・I・I・プロにて、ミヤコ蝶々主演『喜劇 にっぽんのお婆あちゃん』を監督し、1963年、東映京都撮影所で演出した中村錦之助主演『武士道残酷物語』は、日本で初めて第13回ベルリン国際映画祭 金熊賞を受賞、配収4位、キネ旬第5位に選ばれました。
続いて、今井正は、1964年5月、東撮で監督した佐久間良子主演『越後つついし親不知』は邦画配収第4位となる大ヒット、キネ旬6位、また、京撮で監督した11月公開、中村錦之助主演『仇討』はキネ旬9位にランキングされる評価を収め、日本映画史に残る2作品を残しました。
この後、岡田茂から大奥物の監督を頼まれ、脚本家の大御所八木保太郎と準備稿『大奥物語』を作りましたが、岡田の考える方針に合わず却下され、東映を去ります。岡田はこの大奥物に京撮若手監督の中島貞夫を抜擢、岡田自ら㊙を入れたタイトル『大奥㊙物語』を監督、東映はエロス路線、任侠路線をより過激に進んでいきました。
これ以降もテレビ、映画で社会派監督今井正は活躍しますが、不良性感度を重視する岡田茂体制の東映では、作品を監督することはありませんでした。
内田吐夢
1920年、浅野良三が横浜山下町に設立した大正活動写真株式会社(後に大正活映株式会社・大活)に入社した内田吐夢は、撮影所長だったトーマス・栗原監督の助手を務め、また、俳優として出演もしました。そこでは、監督で井上金太郎、二川文太郎、俳優で岡田時彦、江川宇礼雄、渡辺篤など、後に日本映画界で活躍する人々とともに映画作りに取り組みました。
1922年に製作を中止した大活を離れ、京都の牧野教育映画に移り俳優出演を重ねながら、10月『噫小西巡査』を衣笠貞之助との共同監督として監督デビューします。
牧野教育映画がマキノ映画製作所に代わった後、マキノを離れ旅役者などをしながら東京の小笠原プロダクションや巣鴨の国際活映(国活)などに出演、国活では監督も行い、1926年に俳優として日活大将軍撮影所に入社しました。
翌1927年からは現代劇の監督に転向し、入江たか子主演『けちんぼ長者』などを演出、1929年、撮影所が太秦に移転してから監督した左翼的傾向映画、小杉勇主演『生ける人形』はキネ旬第4位、1931年に監督した大河内傅次郎主演『仇討選手』もキネ旬第6位に選ばれ、名監督の道を歩みだします。
1932年に村田実、伊藤大輔、田坂具隆とともに、経営に苦しむ日活から独立して設立した新映画社に参加しますが、1本監督したところで解散し、内田は新興キネマに入社しました。
1934年10月、新興キネマは東京大泉に撮影所を開設、現代部が移転すると、内田もそちらに移ります。
1936年、内田吐夢は、マキノ満男が部長の日活多摩川撮影所に移籍、2月、小杉勇主演『人生劇場』を監督しました。そして翌1937年に監督した5月公開の島耕二主演『裸の町』はキネ旬第5位、11月公開の小杉勇主演『限りなき前進』はキネ旬第1位、とベストテンに2作入る高い評価を受けます。1939年、内田は小杉勇主演で『土』を監督。この作品もキネ旬第1位に輝きました。1940年には小杉勇主演の国策大作『歴史』三部作を監督、興行的には苦戦しましたがキネ旬第7位に選ばれます。
日活多摩川でも輝かしい成果を残し、高い評価を得ましたが、1941年、方針の違いから日活を脱退、1942年10月松竹京都撮影所で小杉勇主演『鳥居強右衛門』を監督します。しかし、この作品も興行的に苦戦しました。
戦争末期に満洲にわたり、満映に入りますが、すぐに終戦を迎え、甘粕正彦の自決の場に立ち合うことになります。その後、中国に残留し、戦後の中国映画制作を担う人々の指導に当たりました。
1953年に帰国、翌年東映に入社すると、1955年、井上金太郎監督追悼記念にマキノ光雄が企画した『血槍富士』片岡千恵蔵主演で監督復帰します。井上の『道中悲記』をリメイクしたこの作品は、内田の帰国を喜ぶ伊藤大輔、小津安二郎、清水宏が企画協力、キネ旬8位に選ばれ、高い評価を得ました。
1953年に渡辺邦男監督片岡千恵蔵主演で製作された中里介山原作『大菩薩峠』を、マキノ光雄は1957年、内田吐夢監督片岡千恵蔵主演で再映画化します。この作品は、「音無の構え」机龍之介を演じた千恵蔵の熱演もあって配収は1億円を超え、1年に1本のペースの三部作として公開されました。
その年の11月には東京撮影所で江原真二郎主演『どたんば』を監督、この作品はキネ旬7位に選ばれました。
翌1958年2月公開の市川右太衛門主演『千両獅子』、続けて4月に『大菩薩峠 第二部』、11月には高倉健主演で『森と湖のまつり』でアイヌ問題を取り上げます。
1959年4月に『大菩薩峠』を完結させた後、9月、キネ旬7位に選ばれた『浪花の恋の物語』中村錦之助主演を手掛け、翌1960年5月には大友柳太朗主演『酒と女と槍』、9月片岡千恵蔵主演『妖刀物語 花の吉原百人斬り』を監督しました。
そして、1961年5月、中村錦之助主演『宮本武蔵』五部作が始まります。東映京都のスタッフが総力を挙げて取り組み、東映時代劇の集大成とも言えるこの作品は、配収で第5位となる大ヒットとなりました。
以後、5年にわたり毎年作られたシリーズは第2作『宮本武蔵 般若坂の決斗』が第5位、第4作『宮本武蔵 一乗寺の決斗』が第6位に輝き、東映時代劇映画ファンを喜ばせます。
内田は、『宮本武蔵』シリーズの間に、京撮で1962年、大川橋蔵主演『恋や恋なすな恋』を監督します。この作品ではアニメ合成も試み、ファンタジックな映像美を生み出しました。
1964年1月には東撮で三國連太郎主演『飢餓海峡』を監督。興行的には苦戦しましたが、作品評価は高く、キネ旬第5位に選出されます。
内田吐夢、東映最後の作品は、任侠映画、鶴田浩二主演『人生劇場 飛車角と吉良常』。配収第10位、キネ旬も第9位と有終の美を飾りました。
内田吐夢は東映の名だたるスターの主演映画を手掛け、それぞれの代表作となる作品を生み出し、東映時代劇の格調を高めました。