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㉝ 第3章「躍進、躍進 大東映 われらが東映」
第5節「大衆娯楽主義 元二枚目二人の悪役」
阿部九州男
戦前、二枚目看板俳優として人気を集めた阿部九州男は、ややオーバーアクション気味の演技で個性的な悪役として230本ほどの東映時代劇映画に出演しました。
1929年、19才の阿部は市川右太衛門プロダクションに入社し、春見堅太郎の芸名で『小金井小次郎』古見卓司監督にて映画デビュー、その後主役の右太衛門を助演する二枚目として板割の朝太郎や沖田総司に抜擢されます。
1931年に東京巣鴨の河合映画製作社に移りますが芽が出ず、退社して東亜等持院撮影所を代行経営していた東活映画社に入り、所長の安部辰五郎の名前から阿部九州男と改名すると『閃影双刃録』金田繁監督で初主演を果たしました。
1931年東活『閃影双刃録』金田繁監督
阿部は相手役で共演した木下双葉と結婚、この作品のヒットで河部五郎と並ぶ東活映画社の看板スターとなり、主演を重ねます。
1932年東活『道中評判影法師』古海卓二監督
1932年東活『英五郎旅姿』宇澤芳幽貴監督・大前田英五郎役
しかし、1932年10月、東活は経営破綻し、等持院撮影所は閉鎖されてしまいます。11月、元東亜等持院撮影所長だった高村正次が小林一三の支援を受け、東活社長だった南喜三郎、千本組笹井末三郎とともにマキノ御室撮影所に宝塚キネマ興行を設立し、宝塚キネマ京都撮影所としました。
阿部は妻の木下と一緒に宝塚キネマに移り、富国映画社を解散し入社してきた羅門光三郎と二枚看板のスターとなります。また木下双葉も羅門の妻・原駒子とともに看板女優となり、二組のスターカップルが宝塚キネマを支えました。
1933年宝塚キネマ『天保捕物鬼譚』堀江大生監督
1933年宝塚キネマ『風流上州颪』大伴麟三監督・那古の仙太郎役
1933年9月、阿部夫婦は経営難の宝塚キネマを離れ、再び東京の河合徳三郎の大都映画(河合映画製作社を6月に改編)に入社、夫婦で大都時代劇の看板俳優として活躍しました。
1935年大都『国柱日蓮大聖人』中島宝三監督・日蓮役
1935年大都『天保片割れ曾我』石山稔監督
1936年大都『怪猫佐賀の夜桜』石山稔監督・小林半左衛門役・水絵役
1936年大都『源八一番手柄 幽霊一座 』石山稔監督・目明し源八役
1936年大都『天竺徳兵衛』石山稔監督・天竺徳兵衛役
1937年大都「忠臣蔵」白井戦太郎監督・大石内蔵助・大石の妻役
1937年大都『石川五右衛門』石山稔監督・石川五右衛門役
1938年に木下双葉と死別後、大都の女優東竜子と再婚し共演します。
1939年大都『美丈夫三国一』中島宝三監督・東竜子と
1942年、戦争統合で大都は大映に吸収され、大映創立記念オールスター映画『維新の曲』で近藤勇を演じ、ここから脇役に転じます。
1951年、大映を離れフリーとして主に新東宝や東映の時代劇映画に出演し、主に悪役として活躍しました。
1953年『べらんめえ獅子』渡辺邦男監督・匂坂伊織役
1954年『巷説荒木又右衛門 暁の三十八番斬り』渡辺邦男監督・飯沼天真斎
役
1956年『鍔鳴浪人』内出好吉監督・痘痕の藤次役
1956年『水戸黄門漫遊記 怪力類人猿』伊賀山正光監督・泉屋文左衛門役
1956年『剣法奥儀 飛剣鷹の羽』内出好吉監督・庄屋平左衛門役
1956年『異国物語 ヒマラヤの魔王』河野寿一監督・海賊竜神丸役
1956年『満月あばれ笠』内出好吉監督・獅子鼻の親兵衛役
1956年『南海の若武者物語 風雲黒潮丸』深田金之助監督・悪の兵衛役
1957年『花まつり男道中』小沢茂弘監督・人斬り陣九郎役
1957年『佐々木小次郎』佐伯清監督・修験者役
1957年『鬼面流騎隊』井沢雅彦監督・犬神刑部役
そして1958年から1965年に逝去するまで東映に所属し、映画、テレビで貫禄のある悪役を演じました。
1958年『千両獅子』内田吐夢監督・下田屋甚九郎
1958年『旅笠道中』佐々木康監督・野沢の鉄五郎役
1958年『大江戸七人衆』松田定次監督・加賀見勘太夫役
1959年『あばれ大名』内出好吉監督・柳ヶ瀬一心役
1959年『里見八犬伝』内出好吉監督・扇谷定正役
1960年『右門捕物帳 地獄の風車』沢島忠監督・兼田軍次役
1960年『旅の長脇差 花笠椿』小沢茂弘監督・日下部作十郎役
1961年『八荒流騎隊』工藤栄一監督・赤田藤九郎役
1961年『宮本武蔵』内田吐夢監督・淵川権六役
1963年『忍者秘帖 梟の城』工藤栄一監督・松倉蔵人役
九州男という変わった名前とスチルでわかるように憎々しい表情の演技が印象に刻まれる阿部は勧善懲悪の東映時代劇になくてはならない存在でした。
戦前の二枚目スターは東映に入ってからは貫禄が付き、若い頃と同じ表情をしても悪く見えるのが不思議です。阿部九州男がたまに善人役を演じるときは人一倍気のいい、優しいおじさんでした。それが本来の姿であったと思います。
1959年『雪之丞変化』マキノ雅弘監督・将軍家斉役
戸上城太郎
大悪に雇われた使い手の用心棒などの悪役を演じ、様々な時代劇で活躍した戸上城太郎は、1959年9月から東映に所属し、1966年1月までに100本ほどの時代劇映画に出演しました。
1938年に東宝京都撮影所付属俳優養成所に入所し、俳優を目指した戸上は、1940年に日活に入社、『まぼろし城』などに出演の後、翌年、稲垣浩監督に抜擢され『海を渡る祭礼』のニヒルな浪人・小布施羊太朗役にて主演デビュー、大作『江戸最後の日』では大役の山岡鉄太郎を任されました。
1941年日活『海を渡る祭礼』稲垣浩監督・小布施羊太朗役
戦時統合で日活が大映に変わってからも、戸上の野性的な魅力が評価され、1943年、牛原虚彦監督の国策大作『成吉思汗』の主演に大抜擢されます。
1943年大映『成吉思汗』牛原虚彦監督・テムジン(チンギス・ハーン)役
戦後は大映『鉄拳の街』に主演の後に脇役に回り、1949年からはフリーとして、松竹、東宝、新東宝など各社に出演、東横映画では『獄門島』『旗本退屈男』シリーズなど、東映になってからは『天狗の安』『八つ墓村』など数多くの作品に出演しました。
1950年東横『千石纏』マキノ雅弘監督・亥之助役
1951年『快傑鉄仮面』渡辺邦男監督・熊谷嘉平治役
1956年『父子鷹』松田定次監督・渡辺兵庫役
1957年『はやぶさ奉行』深田金之助監督・俵藤源之進役
1957年「ゆうれい船」松田定次監督・倉田千九郎役
1959年からは東映の専属となり、ふてぶてしい剣豪悪役として数多くの映画やテレビ時代劇で活躍しました。
1959年『天下の伊賀越 暁の血戦』松田定次監督・桜井半兵衛役
1960年『丹下左膳 妖刀濡れ燕』松田定次監督・鏑木又五郎役
1960年『ご存じいれずみ判官』佐々木康監督・天童重四郎役
1960年『新吾十番勝負 第三部』松田定次監督・多羅尾平八役
1960年『大岡政談 魔像編』河野寿一監督・脇坂近江之介役
1960年『桃太郎侍 江戸の修羅王』深田金之助監督・高垣勘巻役
1961年『剣豪天狗まつり』小沢茂弘監督・鳴子典膳役
1962年『血煙り笠』松田定次監督・角田武兵衛役
1962年『稲妻峠の決闘』中川信夫監督・柴田勝家役
1963年『柳生武芸帳 剣豪乱れ雲』内出好吉監督・田宮平八郎役
1966年『小判鮫・お役者仁義』沢島忠監督・関根役
若き日のチンギス・ハーンを演じた二枚目戸上城太郎でしたが、東映時代劇では主に剣客として数多くの映画やテレビの中で、その悪役ぶりと斬られて倒れる姿を見つけることができます。
阿部九州男、戸上城太郎。二人の二枚目は、東映時代劇を支えた記憶に残る武闘派悪役俳優へと転身したのでした。
1959年『江戸の悪太郎』マキノ雅弘監督・長兵衛役(阿部)・曽谷平兵衛役(戸上)