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173.第5章「映画とテレビでトップをめざせ!不良性感度と勧善懲悪」
第35節「東映メディアミックス・キャラクタービジネス確立(まとめ)前編」
1964年、NET社長も兼務していた東映社長大川博は、東映内でテレビ局への営業を積極的に進めることができる人材を探していました。
6月、関東支社長今田智憲は、関東支社で映画セールスを担当していた渡辺亮徳(よしのり)を大川に推薦し、営業部テレビ営業課に異動させます。
「ブルドーザー」と呼ばれていた渡辺は、大川、岡田の下でテレビ部にてメディアミックスを促進、東映のテレビキャラクタービジネスを確立して行きました。
今節では、渡辺が陣頭指揮して作り上げた東映キャラクタービジネスとメディアミックスの歴史をその黎明期からまとめてご紹介いたします。
0. 東映テレビキャラクタービジネスのはじまり
1953年春、欧米の映画事情を視察した東映社長の大川博は、まもなく日本にもテレビの時代が到来すると考え、帰国後すぐにテレビ事業の研究に取り掛かります。
1956年2月、郵政省から東京地区に新たに2つの民間テレビ局、一つは総合番組局、もう一つは教育専門局を開設することが発表されました。
これを知った大川はすぐさま行動し、6月には「国際テレビ放送株式会社」の名称で郵政大臣に対して教育専門テレビ局開設の免許申請を行います。
度重なる話し合いの結果を経て、1959年2月、東映は旺文社、日本短波放送等と共同で日本教育テレビ(NET)を開局しました。
大川率いる東映は、1956年以降日本一の映画配給会社に成長します。
その原動力となったのは1954年1月、東映のゼネラルプロデューサーマキノ光雄が進めたチャンバラ時代劇映画「東映娯楽版」でした。
子供向けヒーロー映画路線は大成功し、多くの子供たちを映画館に集めます。
これによって子供映画の東映のイメージが定着しました。
また子供の教育に力を入れる大川は、1956年8月、東洋のディズニーを目指しアニメ製作会社東映動画を創設します。
1958年10月には日本初の総天然色長編漫画映画『白蛇伝』を公開しました。
1959年2月のNET開局に向けて東映は、テレビ映画制作に着手します。
開局後、得意の子供向け時代劇『風小僧』(1959/2/3~12/29)、それに続く山城新伍主演『白馬童子』(1960/1/5~9/20)は高視聴率を上げました。
6月から放映の波島進主演『七色仮面』(1959/06/03~12/31)、千葉真一主演『新・七色仮面』(1960/01/07~06/30)、同じく千葉主演『アラーの使者』(1960/07/07~12/27)、松下電器単独スポンサーの小嶋一郎主演『ナショナルキッド』(1960/08/04~1961/04/27)など、東撮子供向け仮面ヒーロー作品も人気を博します。
子供番組を中心としたテレビシリーズも好調に発進しました。
1960年、大川は「ゴジラシリーズ」など東宝特撮映画の大ヒットを見て「これからは特撮と動画の時代」と考えます。
早速、撮影所に本格的特撮技術を導入することを決定し、特撮人材を招き特撮機材を揃えました。
まずは映画で特撮技術を活用し、その後子供向けテレビ特撮で花開きます。
1. 東映動画制作テレビアニメのはじまり
1963年1月、フジテレビ系にて手塚治虫の虫プロダクション制作のテレビアニメ『鉄腕アトム』(1963/1/1~1966/12/31)が始まりました。
テレビアニメ『鉄腕アトム』は大ヒットし、ここから日本のアニメビジネスがスタートします。
このヒットに刺激を受けた東映動画は、オリジナルテレビアニメ『狼少年ケン』(1963/11/25~1965/8/16)を制作。11月、NET系にて放映されました。
翌年6月には同じくNET系にて東映動画テレビアニメ第2弾『少年忍者 風のフジ丸』(1964/6/7~1965/8/29)が始まります。
1966年2月、東映本社にテレビ部が発足し渡辺は次長に昇進しました。
4月、渡辺が7人の戦士が活躍するアイデアを出した『レインボー戦隊ロビン』(1966/4/23~1967/3/24)の放映が始まります。
このアニメの企画原案は、トキワ荘出身の石森章太郎(後石ノ森章太郎)藤子不二雄、鈴木伸一の4人が設立したチャンネル・ゼロが作りました。
アニメ『レインボー戦隊ロビン』は、後に石森原作の実写特撮『秘密戦隊ゴレンジャー』へとつながる戦隊物の嚆矢で、ここから渡辺と石森の関係が生まれます。
また、この作品の中のロケット型ロボット「ペガサス」と大型ロボット「ベンケイ」、2体の大型ロボットが、東映動画での大型ロボットの嚆矢でした。
7月には石森原作アニメ映画『サイボーグ009』が東映系劇場で公開され、大ヒットします。
以後、石森は東映にとってなくてはならない存在となりました。
2. 平山亨企画東映テレビ特撮のはじまり
1965年12月、京都撮影所(京撮)のベテラン助監督平山亨が本社テレビ部に異動し、テレビプロデューサーとして子供向け作品の担当となりました。
水木しげる作の貸本マンガ『悪魔くん』に目を付けた平山は、当時テレビ部次長の渡辺に相談、講談社の内田勝『週刊少年マガジン』編集長を紹介され、企画が進んで行きます。
1966年10月、『悪魔くん』(1966/10/06~1967/3/30)がNET系で放映され大ヒット。この作品から渡辺、平山コンビによるメディアミックスが始まりました。
平山は『悪魔くん』の後、関西テレビ(KTV)系『仮面の忍者赤影』(1967/4/5~1968/3/27)、NET系『ジャイアントロボ』(1967/10/11~1968/4/1)、NET系『河童の三平 妖怪大作戦』(1968/10/10~1969/3/28)、TBS系『柔道一直線』(1969/06/22~1971/04/04)など、次々と子供向けテレビ特撮ヒーローシリーズを制作します。
それぞれの作品が人気を集め高視聴率を獲得、テレビ局サイドからは延長を望まれますが、テレビ局からの受注金額では撮影経費がまかなえず制作赤字となためやむなく終了となる作品が続きました。
3. 東映動画制作テレビアニメの拡大と「東映魔女っ子シリーズ」の始まり
1966年12月、横山光輝が集英社『りぼん』に連載中の人気マンガ「魔法使いのサニー」を原作に東映動画が制作した『魔法使いサリー』(1966/12/5~1968/12/30)が、NET系で始まります。
この作品は、女の子向けアニメを探していた渡邊がNETに提案した日本で初めて少女が主役のテレビアニメ企画で、狙い通り大ヒットしました。
1968年1月、講談社『週刊少年マガジン』連載の水木しげる『墓場の鬼太郎』を原作に東映動画が制作した『ゲゲゲの鬼太郎』(1968/1/3~1969/3/30)が、フジテレビ系にて始まります。
『ゲゲゲの鬼太郎』も大評判を呼び、東映動画を代表する作品の一つとなりました。
東映動画は、この後NET系にて赤塚不二夫原作『ひみつのアッコちゃん』(1969/1/6~1970/10/26)、『もーれつア太郎』(1969/4/4~1970/12/25)、読売テレビ系で梶原一騎原作『タイガーマスク』(1969/10/2~1971/9/30)、TBS系『キックの鬼』(1970/10/2~1971/3/26)など、日本アニメ史に残る人気作品を数多く生み出します。
中でも、『魔法使いサリー』『ひみつのアッコちゃん』と続いた魔法を使う少女が主人公のシリーズは、女の子たちから絶大な人気を得てこの後も続き「東映魔女っ子シリーズ」と呼ばれる人気シリーズとなりました。
また『魔法使いサリー』から始まった女の子が主人公のアニメは、現在の「美少女戦士セーラームーン」や「プリキュアシリーズ」に至る人気シリーズとなります。
4. 『仮面ライダー』大ヒット、シリーズ化
1971年4月、MBS・NET系にて『仮面ライダー』(1971/4/3~1973/2/10)が始まりました。
講談社内田勝編集長に話を持ち込み、放送開始に合わせた『週刊ぼくらマガジン』での新連載もスタートします。
この作品は主人公の「変身ポーズ」が人気を集め大ヒットしました。
社会的ブームを巻き起こした「仮面ライダー」はシリーズ化し、日本を代表するテレビヒーローキャラクターとなります。
「仮面ライダーシリーズ」
5. 特撮キャラクタービジネスの始まり
日本のテレビキャラクターの商品化権ビジネスは、手塚治虫製作テレビアニメ『鉄腕アトム』(1963/1/1~1966/12/31)から始まります。
番組メインスポンサーの多くは大手食品会社で、ガムやチョコレートなどの商品名称や包装にキャラクターを使用、その枠でお菓子などのテレビCMを展開していました。
石森プロマネージャー加藤昇からキャラクター版権商売の有効性を教わった渡辺は、『仮面ライダー』を制作するにあたり商品化権販売に力を注ぐよう指示します。
しかしこれまで東映の特撮作品は本社内に商品化権を管理する部署を置いてなかったため、『仮面ライダー』放送開始当初は東映動画の版権セクションが商品化権管理を担当しました。
『仮面ライダー』のメインスポンサーは、岡田茂の広島一中時代の後輩松尾孝が社長のカルビー製菓が決まります。
スナック菓子におまけとして付けた「仮面ライダーカード」が大ヒットしとなり、社会現象になりました。
また、キャラクター玩具メーカーの先駆けで最大手のタカトクが子供向け玩具のライセンスを取り、「仮面ライダー変身ベルト」など各種玩具を販売しました。
番組人気が上昇する中の11月、バンダイは子会社ポピーを創設。後押しした渡辺はポピーの森連専務、杉浦幸昌常務に会い、番組スポンサーを要請します。
許諾を得て杉浦が高価格の「風車が回って光る変身ベルト」を商品化するとリアルな変身ベルトが子供たちの心をつかみ大ヒットしました。
ここからポピーが製作販売する東映キャラクター玩具の快進撃が始まります。
やがて玩具の売り上げとともに規模を拡大した玩具会社がキャラクター番組のメインスポンサーになって行きました。
6. 『仮面ライダー』に続く東映特撮ヒーローたち
石森章太郎のデザインで渡辺亮徳、平山亨が取り組んだ子供向け特撮ヒーロー番組『仮面ライダー』が大ヒットした後、渡辺・平山は、
YTV・NTV系さいとう・たかを原作『超人バロム・1』(1972/4/2~11/26)
MBS・NET系石森章太郎原作『変身忍者嵐』(1972/4/7~1973/2/23)
NET系石森章太郎原作『人造人間キカイダー』(1972/7/8~1973/5/5)
NET系石森章太郎原作『イナズマン・イナズマンF』(1973/10/2~1974/9/24)など、
様々な特撮変身ヒーローシリーズを生み出します。
これらの作品は子供たちに人気を集め、他社作品も量産されたことで特撮変身ヒーローブームが興りました。
7. 巨大ロボットアニメブームとロボット玩具市場の誕生
1972年12月、フジテレビ系にて永井豪とダイナミックプロ原作巨大ロボットアニメ『マジンガーZ』(1972/12/3~1974/9/1)が始まります。
番組スポンサーのポピーが売りだした大型玩具、無敵の王者「ジャンボマシンダー」が大ヒット、その後マジンガーZの設定にちなんで作ったずっしりと重くて精巧な「超合金マジンガーZ」も爆発的に売れ、番組人気に大きく貢献しました。
「超合金」の名称は、ポピーがバンダイに吸収された後も戦隊ロボットや「ガンダムシリーズ」など様々な作品で使用され、バンダイの誇る一大ブランドとなります。
また、1972年に「仮面ライダー ミニミニサイクロン号」から始まったミニカーシリーズ「ポピニカ」の「マジンガーZ」のホバーパイルダーも大ヒットしました。
その後「ポピニカ」はポピー及びバンダイの主力玩具シリーズとして拡大して行きます。
『マジンガーZ』から巨大ロボットアニメブームが興り、玩具と結びついた巨大マーケットが誕生しました。
8. 東映特撮キャラクター版権ビジネス部署設立
『仮面ライダー』の大ヒットから始まったキャラクタービジネスの拡大を受け、1973年2月、東映はテレビ事業部内にマーチャンダイジング窓口とするべくテレビ関連事業室を設けます。
東映本社内にあった東映動画営業部版権課は新宿に設立した東映動画の新事務所に移りました。
テレビ関連事業室では新たに児童向けテレビ月刊情報雑誌『テレビランド』を黒崎出版より創刊します。
『テレビランド』は11月号から徳間書店に移管しました。
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次回は渡辺が陣頭指揮して作り上げた東映キャラクタービジネスとメディアミックスの続編をご紹介いたします。