87. 第4章「行け行け東映・積極経営推進」
第16節「東映テレビアニメの誕生 後編」
⑧ 今も人気の水木しげる『ゲゲゲの鬼太郎』
1954年、当時紙芝居を書いていた漫画家水木しげるは、戦前に紙芝居作家伊藤正美が考案し人気を集めた紙芝居『ハカバキタロー』を、伊藤の許諾を受けて新たな紙芝居としてリメイクします。
貸本漫画を経て、1965年、講談社『週刊少年マガジン』8月1日発行32号に、『墓場の鬼太郎』の「手」が掲載されました。
不定期掲載で、初めは人気が出ませんでしたが、翌1966年1月1日号から『週刊少年マガジン』に連載を始めた『悪魔くん』の人気が上昇し、10月から東映で実写テレビドラマ化され水木が一躍人気漫画家となったことで、1967年5月7日発行『週刊少年マガジン』19号から『墓場鬼太郎』の定期連載が始まります。
しかし、『墓場鬼太郎』は子どもたちの人気を集め大ヒットし、テレビアニメ化が検討されますが、墓場という言葉と作品の持つ「おどろおどろしさ」がスポンサーに不評でなかなか進みませんでした。
そこで、東映は原作者水木しげると話し合い、タイトルの変更を検討、内容も子供向けにソフトアレンジし、初めてフジテレビ(CX)と交渉した結果、水木が考えた『ゲゲゲの鬼太郎』(1968/1/3~1969/3/30)とタイトルを変えて、1968年1月から放映にこぎつけます。
放映が始まると『ゲゲゲの鬼太郎』は、『悪魔くん』から始まった妖怪ブームに乗り、5クール全65回続く大人気シリーズとなります。
テレビアニメ誕生のきっかけとなった熊倉一雄が歌う主題歌は、立ち上がりの「ゲッゲッゲゲゲのゲー」からインパクトを与え、「朝は寝床でグーグーグー。楽しいな。楽しいな。お化けにゃ学校も、試験も何にもない。」という歌詞がアニメ企画者の心をとらえ、子供たちの共感を呼びました。
1971年10月7日からは、第2シリーズがCX系でカラーになって登場します。
このシリーズも人気を集め、1年間全52回続きました。
以降、水木しげるの『ゲゲゲの鬼太郎』は人気コンテンツとして何度もリメイクされ、劇場でも公開され、東映動画を代表する作品の一つとなります。
⑨ 赤塚不二夫『もーれつア太郎』
1962年4月15日発行小学館『週刊少年サンデー』16号から連載が始まり、爆発的な人気を呼んだ『おそ松くん』。この漫画の作者赤塚不二夫も元トキワ荘の住人です。
『おそ松くん』の連載は1969年5月18日発行21号まで続き、毎日放送製作、元東映動画の山本善次郎が設立したアニメ制作会社チルドレンズ・コーナーとスタジオ・ゼロが制作したテレビアニメは、1966年2月5日から1967年3月4日までNET系で放映されました。
また、赤塚は1962年、集英社の月刊誌『りぼん』6月号から連載の『ひみつのアッコちゃん』がブレイクし、一躍、大人気漫画家となります。
そして、1967年4月9日発行講談社『週刊少年マガジン』から『天才バカボン』を連載し、この作品も大ヒット。ヒットメーカーとなった赤塚は、この年、11月26日発行小学館『週刊少年サンデー』48号から『もーれつア太郎』の連載も始め、ギャグマンガの天才、時代の寵児と言われました。
東映動画は、1969年1月、赤塚の『ひみつのアッコちゃん』(1969/1/6~1970/10/26)、続けて4月から『もーれつア太郎』(1969/4/4~1970/12/25)。制作した両作品をNETにて放映します。
両作品とも高視聴率を記録し、7クール28週続く人気番組となります。
『もーれつア太郎』では主人公のア太郎よりも脇役のニャロメやケムンパスが大人気で子供たちは皆、脇キャラの似顔絵を描き、会話の最後に「ニャッロメー」という言葉をつけてしゃべっていました。
⑩ スポ根アニメ梶原一騎原作『タイガーマスク』『キックの鬼』と花登筐原作『アパッチ野球軍』
1966年5月15日発行講談社『週刊少年マガジン』で連載が始まった、梶原一騎原作川崎のぼる作画のヒット作『巨人の星』は、読売テレビ(YTV)製作、東京ムービー制作でアニメ化され、1968年3月から日本テレビ(NTV)系で放映が開始。ここから、いわゆるテレビ界のスポ根物の一大ブームが巻き起こります。(スポ根の流れにつきましてはhttps://note.com/toei70th/n/nc264cecab993参照)
『巨人の星』など様々なスポ根漫画の原作を書いた梶原一騎は、1968年1月から講談社の月刊誌『ぼくら』にて、辻なおき作画で代表作の一つ『タイガーマスク』の連載を始めました。
1969年6月から始まった大ヒット作『柔道一直線』で梶原との強い信頼関係が生まれた東映は、『巨人の星』の読売テレビと組んで『タイガーマスク』のアニメを企画、東映動画が制作を担当し、1969年10月2日からNTV系で放映を開始しました。
『タイガーマスク』(1969/10/2~1971/9/30)は、『レインボー戦隊ロビン』『サイボーグ009』などのキャラクターデザインを手がけた木村圭一郎がキャラデザインを担当。演出の京都撮影所(京撮)助監督出身田宮武、勝間田具治、美術出身の白根徳重などが時代劇で鍛えた技術を活かし、また、技術面で新たに導入したトレスマシンを活用することで、劇画調タッチの迫力ある格闘シーンを生み出しました。
プロレス人気もあり、『タイガーマスク』は最高視聴率31.9%に達する大ヒット。2年間全105回続く人気作となります。
中嶋製作所が作った覆面が着脱できるソフビ人形もブレイクし、子供たちの間で人形をおもちゃのリングで戦わせることが流行しました。
1966年1月、キックボクシングという名称を考案した野口修によって、日本キックボクシング協会が設立され、4月11日に大阪府立体育館で初めてキックボクシングの興行が開催されます。
高校卒業後大映に入社、俳優の道を進むべく日大芸術学部に入学した白羽秀樹は、卒業後、野口ジムに入り、この興行にて沢村忠というリングネームでキックボクシングデビューしました。
沢村は幼い時から剛柔流空手を習っており、大学時代には全日本学生選手権で優勝するなど空手の猛者で、スターを目指し、新東宝、大映で俳優活動も行っていました。
1968年、YKKがスポンサーになり、作家寺内大吉の解説でTBS系月曜夜19時から放送を開始するとたちまち全国にキックボクシングの人気が高まり、沢村は、真空飛び膝蹴りと命名された技を武器にKOを重ね、キックの鬼と呼ばれ、その頂点に君臨し一躍スターの仲間入りをします。
1969年、少年画報社の月刊誌『少年画報』2月号から、梶原一騎原作、中条けんたろう作画で沢村の半生を描いた『キックの鬼』の連載が始まりました。
そしてそれを原作に、1970年10月からTBS系にて東映動画制作アニメ『キックの鬼』(1970/10/2~1971/3/26)の放映が開始します。
主題歌のオープニング「キックの鬼」は野口修、エンディング「キックのあけぼの」は梶原が作詞、ともに沢村本人が歌い、素朴な歌声が評判を集めました。
アニメは2クール全26話続き、1971年3月には『東映まんがまつり』の1本として映画館でも上映されます。
沢村忠とともにキックボクシングは一大ブームとなり、TBSのキックボクシング中継も10年以上放送が続きました。
1970年8月、少年画報社『週刊少年キング』35号から花登筐原作梅本さちお作画の異色のスポ根マンガ『アパッチ野球軍』が始まりました。
愛媛県松山の郊外にある過疎の村で様々ないきさつのある学生たちが困難に会いながらも甲子園を目指してがんばっていくスポ根ストーリーですが、劇画調のタッチで描かれたそれぞれのキャラクターが現在放映できないほど個性的で話題を呼びます。
1971年、テレビ界の一連のスポ根ブームの中、『アパッチ野球軍』(1971/10/6~1972/3/29)も東映が企画し東映動画制作にてNET系で放映されます。
このアニメも2クール全26話続き、子供たちの間で異様な感じで盛り上がりました。
このように、テレビの発達とともに、東映動画は雑誌連載で人気の作品のテレビアニメ化に取り組むことで着実に実績を上げ、東映テレビドラマの黄金時代に貢献します。
次回は、『魔法使いサリー』から始まる女の子向けのアニメシリーズの展開についてお話いたします。